「坊主」という生き方 ・・・ 働かずに食うということ
舟橋 左斗子
目次
1、美しい風景
2、妻帯を許さないミャンマーの仏教 / 僧侶が守る227の戒律
3、托鉢と物乞いはどう違うか
4、「宗教」よりも「科学」に近い仏教

「宗教」よりも「科学」に近い仏教
 一体なぜ僧侶の道を選んだのですか…私の質問にキラサ僧はやはり、さらりと答えた。「ヴィパッサナー瞑想を重ねれば重ねるほど、心が澄み渡ることが実感できるんです。それは世の中のあらゆる事象への理解がひとつひとつ増すということであり、知恵が増えるということです。私は瞑想修行がたまらなく好きなのです。ときに、瞑想が私の妻だと思うことがありますよ」そして、にこっといたずらっぽい笑顔を見せた。大学在学中の15日間の瞑想体験、そして卒業後の半年間の瞑想。ごく普通の頭のいい大学生だった彼が、ヴィパッサナーという、仏陀が教えた瞑想を続けた半年後には僧侶の道を選んでいた。
 私がミャンマーの仏教に出会って意外だったことのひとつは、仏教というのは「宗教」であるはずなのに、摩訶不思議な、科学で理解できないようなことがほとんどないということだった。すべてが理論的で、原因があって結果があるという科学の世界ではあたりまえの因果法則にもとづいて話が展開される。たとえば教祖である仏陀はごく普通の人間であり、神でもなければ神の子でもない、世界の創造主でもなかった。その仏陀があらゆる修行を試みた後に生み出したヴィパッサナーという瞑想修行。話を聞けば、何もかもをありのままに観る、というただそれだけの非常にシンプルな修行法であり、その中に自然と発見される「法則」があるというだけのことなのだが、いざトライしてみると、ちょっとかじっただけの自分には、いかに自分がこれまでものごとを「ありのまま」見ていなかったかがわかるばかりでなかなか核心に近づけない。そんな私に詳しい話をする資格はないので、感じたことだけを言うにとどめるが、科学者だったキラサが話す仏教は、いつも科学的だったし、その話を聞いていると、学者たちが2000年かけてやっと「からだ」の科学を解明したというのに、2000年も前に仏陀が「こころ」の科学を解明していたことの偉大さに確かに驚きのようなものを感じさせられた。「仏教」の次には「科学」が持つ力が大きいと「科学」びいきのキラサは、よく科学者の名前を口にした。たとえば、現在では究極の科学者ともいえるアインシュタインは生前、もし未来に残る「宗教」があるとすればそれは「仏教」を置いては考えられないと言ったとか、そんな話も楽しそうにした。私はキラサと出会って、仏教が宗教的であるより、科学的だという点が大変気に入った。
 また、修行を重ねることは大乗仏教が非難したように完全な個人主義的行為なのではなく、托鉢を通じ、生きざまの露出を通じ、個人の修行が社会に影響を与えうるものであることを少し感じるようになった。少なくとも僧侶たちの修行の目的は、自己への執着からの開放、つまりすべての生きとし生けるものへの平等な愛だというのであるから。仏陀のように、修行の頂点に達したごくわずかな人々は、たとえ自分に切りつけた相手に対しても怒りを感じないという。そのような人がもしいたとすれば、人々に多大な影響を与えないはずはないと思うのだ。ミャンマーには現在、1人とか、2人とか言われている。日本にも、僧侶の姿ではなく、人格者として存在するかもしれない。人格者は存在そのものが、影響力を持つはずである。
 最後にキラサ僧に「将来の夢」を聞いた。「夢? そんなものは何にもない」…でも確か以前、森の中にこもって10年でも20年でも修行したいと言っていたではないですか? …そう聞く私にキラサ僧は微笑み、答えた。「それは夢ではなくて『決心』です」

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