ナガの旅 その5 〜 ラヘー到着
15時半、ラヘーに到着した。トラックは食堂の横に止まった。シンディから6時間だった。
ラヘーでは、教員を定年退職したライノン・ナガ族のヤムカさんがバイクの準備やら宿泊の用意やらいろいろとアテンドしてくれていた。ヤムカさんとiPadに入れたナガの地図を見ながら食堂で打ち合わせ。あらかじめ旅行会社のほうで村毎の入域許可はもらっていたのだが、ヤムカさんと話をしているうちにそれ以外の村にも行きたくなった。「まだ外国人が行ったことがない」という言葉に弱いのだ。
結局、3箇所ばかり追加で許可がもらえるかどうかヤムカさんに依頼することにした。とりあえず、翌日の村めぐりは予定通りの村へ行くことにした。
ところで、ヤムカさんのことをライノン・ナガ族と書いたが、ミャンマー文字だとラインノウンという表記だ。ローマ字表記だと、Lainong, Leinong, Lainaung などがある。耳にはライノーとも聞こえるが、ライノンが一番近いようだ。少数民族の固有名詞をカタカナで書くのは難しい。
今日の宿は学校の教室。4月はずっと休みなので教室を宿として使えるのだ。学校に近づくと鼓笛隊の音が聞こえてきた。うん? ナガで鼓笛隊? 中高生くらいの生徒たち17人で演奏しながら行進していた。これは我々の歓迎式? なんてことはない。3日後にミャンマーの有名な僧侶がラヘーに来るので、その歓迎式典のための練習だった。
でも、お坊さんの歓迎式で音楽? ミャンマーの仏教では僧侶が歌舞音曲を楽しむのは禁止されている。水島上等兵は僧侶の姿で竪琴を奏でたが、本来ミャンマーではありえないことだ。それなのに鼓笛隊の演奏はいいのだろうか。
たぶん、ナガだからいいのだろう。2002年にナガ新年祭でラヘーに来たとき、僧院から大きな音でビルマ語で歌うロック・ミュージックが流れていた。あのキャロル・キングが作曲したロコモーションだ。70年代には、グランド・ファンク・レイルロードが演奏したハードロックバージョンもある。そんなギンギンの歌が僧院から大音量で流れていた。
ナガではキリスト教か土着の精霊信仰が強い。大きな村や早くから開けていた村には教会があり、キリスト教徒が多い。地域によってはキリスト教も入ってこず、今でも多くの人たちが精霊信仰を信じている。最近は政府が率先してナガの村に僧院を建てて僧侶を送り込んでいるが、まだ仏教徒は非常に少ない。僧院があっても、信者が1, 2家族だけだという村もある。こういう状況だと、歌舞音曲禁止など言っている場合じゃない。教会の賛美歌に対抗するための、ロコモーションと鼓笛隊なんだろう。
鼓笛隊の音を聞きながら、宿である教室に着いた。そこには木製の簡易ベットが4台並んでいた。毛布2枚を貸してもらって今日のベッドが出来上がりだ。クッションが全然ないので上向きに寝ると痔が痛むがしょうがない。
この学校には50才前後の先生が一人いた。奥さんと子どもをモンユワに残して一人で宿舎に住んでいる。もう一人先生がいたのだが、その先生は任期が終わって帰ったそうだ。人の良さそうな先生、食事から洗濯から掃除から全部一人でやっていた。でも、あと数日後には学校の休みで奥さんの元で過ごすことができるということで、嬉しそうだった。
ここラヘーでは電気が来るのは夕方から夜の9時頃まで。携帯はCDMAのみ。私が持っているGSMは全く入らない。これで、やっとネットや電話から離れた生活ができる。夜は何もすることがないので9時にはベッドに入った。真っ暗の夜、雨音がしてきたがすぐに寝てしまった。同室のみんなは私のいびきで寝られなかったかもしれないが。
翌日、6時起床。朝モヤがかかって今にも雨が降りそうな天気だった。4月なのでナガの山でもそれほど寒くはない。日本の4~5月ごろの気温だ。
今日は2箇所の村めぐり。村にはバイクで行く。2006年にラヘーの南の村、レイシから村めぐりをしたときは10日ほどずっと歩きだった。そのときと比べると、ずいぶんと楽になったもんだ。インド国境までバイクで1日もかからない。いつもの食堂で朝食をとり、出発を待った。
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