東北へ行ってきた(その3)

地震, 日本

うみねこの声ばかり響いていた

東北3日目、掛布団40枚ばかりと服と雑貨を積んだ軽ワゴンは出発した。昨日の続きということで、岩手県境を越えた。

海岸沿いの道をゆっくり走っていると突然外からエレキの音が聞こえてきた。それもテケテケのベンチャーズサウンドだ。左前方の小さなホテルが音源だった。ホテルの前でおっさんたちがベンチャーズサウンドのライブをやっている。道路を挟んで右側の海岸は津波の悲惨な姿、左側では軽快なベンチャーズサウンド、あまりのシュールな光景に車を止めた。聞くと、5,60代の彼らも近くに住む被災者だった。元気づけのため、ホテルから頼まれて演奏しているという。観客は我々以外にいなかったが、エレキの音は下の集落まで響いていた。

そのエレキが響く集落へと下りていった。外で何人かのおばあちゃんが掃除をしている。「布団いりませんか?」と声をかけると、布団が津波で持って行かれて困っていたとの返事。うれしかった。ただでももらってくれるのはうれしい。ではと、今度は服が入った段ボールをいくつか車から降ろした。寅さんになったような気分だ。おばあちゃんたちが集まってきた。「これあんたにぴったりだ」とか、「ハイカラすぎないかのう」と、急に華やいだ雰囲気になってきた。おじいちゃんも一人いたが、なかなか仲間に入れない。やっぱり男は孤独なのか。

ちょっと元気が出てきた。次の集落に向かう。次に布団のもらい手になってくれたのはお母さんたちだ。さっきのおばあさんたちと同じく自宅避難している人たちで、一階が津波にやられて布団が流されてしまったという。布団先輩の言っていた「匂い」というのが分かってきた。避難所には布団など物資がたくさん届いているが、個人避難している人には何も届かないのだ。おばあちゃんたちが「ハイカラすぎる」といって残した服もこちらでは役にたった。またまた衣料露天を開くことになった。

そろそろ店じまいの時間が迫ってきたが。まだ布団は30枚近く残っている。売れ残った服や雑貨もある。最後はダメ元で、お母さんたちから聞いた避難所に向かった。それまでいくつかの避難所を回ったがみんな余るほど物資があり、我々は役に立てなかった。ということで、最後の避難所もほとんど期待していなかった。

「えーー-、本当に布団を持ってきてくれたんだ!」
「盆と正月が一緒に来たみたいだ!」
なんと、大喜びされたてしまった。ここの避難所は40名ばかりいるが、布団が全くなくて困っていた。布団の代わりに毛布を何枚も掛けて寝たり、座布団を布団代わりにしていた。地震から3ヶ月近く経つのにこんな避難所があったとは。残っていた布団を全部下ろす。服や雑貨の段ボールを見せると、こちらも大喜び。結局全部引き取ってもらえた。こちらも大満足。おちこぼれセールスマンの我々だったが、最後に幸運が待っていた。コーヒーをいただき、しばし歓談したが時間があまりない。心残りではあったが、この避難所を後にした。

援助物資があまり届いてなかった避難所

仙台にはまだ明るいうちに着いた。今回のもうひとつの目的がS さんと会うことだった。S さんは1980年代に仕事でヤンゴンに滞在していた。典型的なビルキチの一人、いや最強のビルキチかもしれない。「ビ」とか「ミ」の音を聞いたり文字を見ただけで反応してしまう人だ。場を明るくする才能に長けているし、人の面倒見も非常にいい。そんなS さんとは地震の後何日か連絡がつかず非常に心配したが、無事であった。その夜は、東北大学に留学しているミャンマー人二名とも一緒に食事をすることになっていた。

留学生は男性一人に女性一人。大学院に通っている穏やかで明るい人たちだ。さすがに地震は怖かったらしい。地震後は山形や埼玉の友人宅にしばらく避難していたという。地震や原発事故のため国に帰った留学生も多いが、彼らは日本に残った。

S さんと留学生たちでビルマ話が盛り上がり東北最後の夜は終わった。

地震, 日本

Posted by 後藤 修身