「坊主」という生き方 ・・・ 働かずに食うということ
舟橋 左斗子
目次
1、美しい風景
2、妻帯を許さないミャンマーの仏教 / 僧侶が守る227の戒律
3、托鉢と物乞いはどう違うか
4、「宗教」よりも「科学」に近い仏教

托鉢と物乞いはどう違うか
 私が興味を感じるもう一つの事象が「托鉢」である。僧侶にとっては修行でもあり、素人目でみれば、この国で僧侶という生き方を続けるための命綱でもあるはずだ。ただ黙って食べ物を集めて歩く僧侶たちは、何かをもらって礼を言わないのはもちろん、黙礼さえしない。キラサ僧のいるマハガンダーヨン僧院では若い青年僧が多いので、遊びたい盛りで食べたい盛り、エネルギーの多分に余っているであろう彼らが、知らぬ目で見れば「物乞い」とどこが違うのかとも思える「托鉢」なる修行に、どんな気持ちで取り組んでいるのかということにも興味があるし、食べ物を差し出す側の一般市民が、自分のうちにも十分な蓄えさえないのに僧侶に食事を提供するその気持ちが一体何なのか、ということにも興味をそそられた。なんといっても若く美しく優秀な青年達が、多く、この国では僧侶の道を選び、ごく普通の一般人が、その彼らの巨大な胃袋を支え、その需要と供給のバランスが崩れない経済システムが成立しているのである。自分たちを顧みると、他国と比べればずいぶん裕福であるにも関わらず、自分の暮らしと貯蓄にあくせくして、見も知らぬ他人にお金を使うなんていうことが今一つぴんと来ない。ごくたまにチャリティだのボランティアだのに参加してちょっとした自己満足を得ている自分のような人間には、この国のどんな小さな村ででも日々繰り返されている「食」の授受が信じられない。
 茶色に塗られた木製の丸い器を抱え、茶色い袈裟を普段より丁寧にまとって肌を隠して、彼らは早朝から一般人の暮らす村へ出かける。足は裸足である。すでに米を炊いた釜を家の前の机に出して待ち、次々とやって来る僧侶にしゃもじ1杯づつお布施する家もあり、毎日決まった僧に食事を差しあげている家もあるが、大半は僧侶たちが各家の前まで歩いていって立ち止まり、静かに立っていると、ときに家人が中からごはんの入った鍋を抱えて出てくることもあり、こないこともあり…とそんなふうだ。
 「若い僧侶たちには、つらい修行でもあるのです。我々は乞食ではない。ほしいと言うことは許されない。また片手で提供されるものをもらうこともできない。ある家の前に立って、家の人がまったく動こうとしなくても、心乱れてはならない。それには自分の生き方が、修行が、ピュアであるという確信がなければなりません。wantではなく、命をつなぐために最低限必要なneedであるという静かな自己観察眼がなくてはなりません。村の人々は、僧侶の、そのような厳しい修行に対し、敬意を表し、敬い、食事をお布施する。我々は、人々の、お布施するという尊い気持ちが、実りある修行につながるよう、努力を怠ることはできません。」
 キラサ僧の話を聞いていて、私はヤンゴンで出会った青年を思い出した。ミャンマーでは、食うに困れば坊主になればいい、ミャンマーほど坊主を大切にする国はないのだから…そんな話が旅行者の口にはよくのぼる。そんな話をヤンゴンでまじめに働くその彼にしたとき、彼は、僕にはできないと言った。ミャンマーのほとんどの男性がそうであるように、彼にも2度ほど、得度の経験があった。ミャンマーの男性は一生に1度でも2度でも僧侶として過ごすことが非常に大きな徳になると考える。4月の水祭りの頃にミャンマーを訪れると、頭を丸めた男たちにたびたび出会うのは、この時期(正月前)に一定期間、僧になって過ごす男性が多いからである。
 彼は「結婚生活にも夢があるし」と当然と思える「理由」をいくつか私に話しながら、さらに強調して続けた。「何より僕には、集中できない瞑想に集中したふりをしたりして、師や、自分を欺き続けることなんてできない」…
 そうなのだ。人間というもの、普通の神経とプライドを持っていれば、他人から食べものをもらってただ単に生きていることなんてできないのだ。私達には想像もつかない、いわゆる「労働」というものをしない僧侶としての一生は、働いた対価を手にして暮らし、そのお金で時には自由に遊ぶこともできる我々一般人には想像もできないような真面目さに満ちているのかもしれなかった。そうでなければ、いつの日か、米を受け取るその心に小さなうしろめたさが生れ、自分がただの物乞いなのではないかと思い始めた日から、托鉢に立つその足に迷いが生じるに違いない。
 「厳しい修行」のサポートとして、汗水流して働く一般人がその労働の対価の中の一部を修行者に差し出す。また、「厳しい修行」は厳しいがゆえに尊敬されるものだというだけではなく、僧団が守り伝える仏陀の教えとともに「厳しい修行」によって個人が得る境地が、一般人にとっても「必要」であるということなのだ。我々が求められる場で労働を提供して食い扶持を稼ぐように、ミャンマーの僧侶は修行により自己を鍛え上げることを求められ、それに答える努力をすることで食を手にする。毎日のこの授受は遊びではできない。国中で繰り広げられるその相互の緊張関係が、ミャンマーという国のひとつの柱でもあるような気がする。労働とお金というあまりにも当然な授受関係以外に、このような相互関係が社会システムの中に組み込まれているということが、私には面白かった。
 托鉢に出て、村人の家の前に立つとき、ただその家族が幸せでありますように、そしてすべての家族が幸せでありますように、と心の中で念じるのだという。「それもひとつの瞑想なのです。慈悲(Loving kindness)の瞑想です」とキラサは言う。このとき、どんな些細な欲望も感じてはいけない、この家族が良いとか悪いとか、この食事がうまそうだとかまずそうだとか、そういう判断をしてはいけない。ただただひたすらに念じるだけ…。そして5分経って何も提供されなければ、そのまま黙って次の家へと向うのだという。惨めな気持ちになりませんかという私の質問は、真摯に修行に励むキラサ僧には失礼な問いだった。
 当然ながら、家によって托鉢盆の中に入れられる食料にはばらつきがあって、ごはんもあればカレーもあり、揚げ物もあれば果物もある。それらが入れられる順にミックスされてその日の昼食となる。美味いもまずいもない。ただ、からだを維持し、修行を続けるための「必要最低限」なのである。

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