ナガの旅7 ~ サントン村のナッサヤー
次の村はすぐ近く、バイクは軽快に走って・・・ あれ? なかなか着かない。ドライバーのタンウィンもちょっと気になったようで、来た道を引き返す。向こうから1台やって来た。どうも、道を間違えてしまったようだ。まあ、気がついてよかった。そこからすぐにサントン村に着いた。この村も人の気配があまりない。子どもたちが遠巻きに顔を覗かせるだけだ。
この村にビルマ語が達者な人が一人いるということで、その家に向かった。ナッサヤーだった。ミャンマーでは、ビルマ族の土着の精霊信仰をナッという。今ではビルマ族だけでなく、他の民族の精霊信仰もナッと総称している。サヤーは先生なので直訳すると「精霊信仰の先生」、祈祷師や霊媒師などのことになる。
でも、ここのナッサヤーは祈祷師や霊媒師といったおどろおどろしさは全くなかった。おしゃべりでひょうきん者のナッサヤーだ。最初からずっと思いつくまましゃべり続けている。ときどき、竹筒から酒を飲みニカッと笑う。この笑顔がかわいらしい。相手にはお構いなしにずっと早口で話しをしているので、結局何を言っていたのか2ヶ月経った今ではすっかり忘れてしまった。私の記憶力の問題もあるが、たいしたことは話してなかったのだろう。
そうだ、ひとつ思い出した。私がナッサヤーの写真を何枚も撮っていると、
「だめだね」
と、ダメ出しを食らってしまった。
「今のカメラはちっちゃいんだ。そんな大きなカメラはだめだね」
私のカメラはだめカメラに認定されてしまった。
忘れようがないこともひとつ、ナッサヤーには秘密があった。だめカメラでこの秘密を撮ったが、ブログにはこの写真は出せない。どうしても知りたい人は直接ナッサヤーに会いに行ってほしい。
そうだ、もうひとつあった。ナッサヤーのところに若い男の客が来た。青年は我々に遠慮して奥の部屋に引っ込んだが、私も彼の後を追った。ビルマ語を話せる彼は、自分は中国人だと言った。文化大革命のころ、両親が中国から渡ってきたという。文化大革命で中国からミャンマーに逃げてきた人たちは多いらしい。そして、両親はシンディーに住みついた。
「シンディーという地名は中国語だというのを知ってる?」
始めて聞く話だった。その頃、シンディーは何もない土地だったが、中国人がたくさん渡ってきて村を作ったという。そうか、シンディーは文化大革命が原因でできた村だったのか。あの怪しい骨董屋のおばあちゃんも、文化大革命の混乱で逃げてきたのかもしれない。
後で聞いた話だが、シンディーは「興地」と中国語で書く。たしかに興地は中国語でシンディーと発音する。中国から逃げてきた人たちの気構えが感じられる地名だ。カムティーといいシンディーといい、地名には歴史が潜んでいた。
注)ナガに詳しいD先生からシンディーの名について指摘された。有名な作家、ルドゥ・ウ・フラが1967年3月にナガ丘陵を訪ねた著書「ナガ丘陵瞥見」で、シンディの地名が出てきている。文革の年代を考えると、文革で逃げてきた中国人がシンディを作ったとは考えられない。ということは、もともとあったシンディーという地名に中国人が興地という文字を当て字で付けたというのが正しい解釈のようだ。
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