ロイヤルファミリーの消滅とその後

インド, ティーボー王

1885年、第三次英緬戦争で破れビルマ王朝は消滅しイギリスの植民地となった。ティーボー王とその家族は1886年、イギリスによりボンベイの南にあるラトナギリに追放された。ラトナギリに着いたのは、ティーボー王、王妃、王女たち3名(第4王女はまだ母親のお腹の中だった)、わずかな付き人たちだった。その時、長女であるパヤージー(Paya Gyi)王女(インドではファヤー王女と呼ばれている)はまだ3才だった。

ティーボー王とスーパヤラッ王妃
ティーボー王とスーパヤラッ王妃(元写真はPradeep Bhosale氏所有)
4姉妹(元写真はPradeep氏所有)
王女たち4姉妹(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

家族は丘の上に建つ2棟の古い家を借りることになった。マンダレーから持ってきた宝石などの財産を売りながらの生活という、マンダレー時代から比べるとつつましやかな暮らしだった。ラトナギリで大きくなったパヤージー王女は美人の誉れが高かった。その彼女が24才のとき、家族の馭者(門番だったという話もある)として働いていた地元の男ゴパル(Gopal)と恋に落ち、トゥトゥ(Tu Tu)という娘を産んだ。しかし、ゴパルは妻子ある男、正式な結婚はできなかった。

パヤージー王女(元写真はPradeeb氏所有)
パヤージー王女(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

1910年、ビルマ植民地政府の資金によって新しい王宮が建てられた。その王宮はティーボー王の意向で、ビルマのチーク材をふんだんに使ったビルマスタイルの王宮だった。この王宮も丘の上に位置し、アラビア海が見渡せた。ティーボー王が亡くなったのは1916年、57才だった。

小さな家に24年間住んでいたが、この王宮へ家族で移った(今はミュージアムとなっている)
小さな家に24年間住んだ後、この王宮へ移った(今はミュージアムとなっている)

父を亡くした家族は1919年、33年ぶりにビルマに帰ることとなった。パヤージー王女は娘トゥトゥを連れていったが、夫ゴパルには必ずラトナギリに戻ってくると言ってビルマに向かった。その言葉の通り、彼女だけはトゥトゥを連れラトナギリに戻ってきた。しかし、ティーボー王は財産をほとんど残さずに死に、ゴパルも妻子を抱え、王女にはわずかな援助しかできなかった。村人たちが王女に時々援助をするという非常に貧しい生活だったという。1947年、ビルマ独立直後に王女は再びビルマに戻った。しかし、それは厳しいものだった。「ビルマの王女がヒンドゥー教徒のインド人との間に子どもをつくった。それも、平民で妻子ある男だ」というビルマ国民の非難の声で、またビルマを去らなければいけなかった。彼女が死んだのはラトナギリに戻った直後だった。

トゥトゥは地元ラトナギリのドライバーと結婚し、5男2女をもうけた。すっかりビルマから忘れ去られインド人として生活していていたトゥトゥであったが、1961年、突然ビルマ政府から一時金をもらうことになった。トゥトゥに3,000ルピー、長女のプレミラ(Premila)に2,000ルピーである。当時としては相当な額だった。多くの子供たちや孫たちに囲まれトゥトゥは2000年10月に亡くなった。

パヤージー王女の娘トゥトゥ(元写真はPradeeb氏所有)
パヤージー王女の娘トゥトゥ(元写真はPradeep Bhosale氏所有)
トゥトゥの長女プレミラとその夫(元写真はPradeeb氏所有)
トゥトゥの長女プレミラとその夫(元写真はPradeep Bhosale氏所有)

今、ラトナギリにはティーボー王の子孫がたくさん住んでいる。今回、最初に出会いいろいろとお世話になったのがプラディーブ氏、トゥトゥの長女プレミラの次男で、王女のひ孫にあたる。彼からいろいろと話を伺い、写真や資料を見せてもらった。プラディーブ氏は運送業を営み、インドでは中流階級といえる。娘はゴアの大学で勉強している。王女の話は次の世代へと伝えられるのだろう。

プレミラの次男 Pradeeb Bhosle氏。今回の旅でいろいろとお世話になった
プレミラの次男Pradeep Bhosale氏。今回の旅でいろいろとお世話になった