仏のすむ地
 

 七月、インド洋でたっぷりと水蒸気を吸い込んだモンスーンがミャンマーにも届き、雨期が始まる。

 ミャンマー暦では七月は「ワーゾーラ」といい、この月の満月の日から十月の「タディンジュラ」の満月の日までを「雨安吾の三ヶ月」と呼ぶ。敬虔な仏教徒の多いミャンマーでは、この三ヶ月は特に神聖な期間とされている。ある日、釈迦が弟子たちとともに各地を説法して歩いていると、「雨期に各地を巡り歩くと、稲穂を傷つけ、草木を踏みにじり、幼虫を踏み殺す」と、ある僧侶が批判した。釈迦は過ちを認め、雨期の三ヶ月は定住しとどまるよ、にと弟子たちに告げた。そうしたいわれから、この間僧侶は僧院にとどまり、在家の人々も持戒につとめ布施を積極的に行うようになったという。

 

西方浄土

 十月の満月の日に、雨安吾の終わりを祝う火祭りがパゴダ(仏塔)で行われる。ミャンマー全土を埋め尽くすパゴダ。どんな小さな村にもパゴダがあり、人々は祈りと共に花を供える。そのパゴダがこの日、蝋燭の光にあふれるという。ヤンゴンの中心を示すスーレーパゴダから歩いて北に三十分、小高い丘と一体となった世界第二の高さを持つシェダゴンパゴダに向かった。

 このパゴダの歴史は古い。2千5百年前、タポウタとバッカリという名の兄弟の商人がインドで釈迦に会い、髪を八本もらい受け、それをここに奉納したという。今では、六十余りの大小の仏塔に囲まれ、九九.四メートルの巨大な姿を見せる。表面には金箔が張られ、塔の先端には七六カラットのダイヤモンドが輝いている。

 参道の入り口では、サンダルを脱ぎ、素足にならなければならない。屋根のついた参道の石段が冷たくて気持ちがよい。両側には土産物を売る小さな店が続いている。漆塗り、ふくろうの置物、髪飾り、仏像、線香、花、様々なものが売られている。その中をロンジー(ミャンマー風腰巻き)をまとった人たちがゆっくりと歩いている。頂上まで上りつめると、参道が終わり目の前が開けた。m12.jpg (27684 バイト)

 急に明るくなる。目の前では、巨大な仏塔が四方からライトで照らされ、まばゆく輝いていた。それを取り囲むように、無数の蝋燭の光が揺れている。パゴダを巡る回廊には家族連れ、恋人同士、老人、子供、僧侶、多くの人たちが集っていた。蝋燭に灯をともす人、仏像に花を捧げ経を唱えている人、その前で瞑想を続けている人、それぞれの時を過ごしている。敷きつめられた大理石はまだ太陽の熱を残していた。

 「日本人でありますか」
突然後ろから聞こえてきた日本語に驚き、振り返った。六十を過ぎていると思われる痩せた男が立っていた。柔和な視線をまっすぐこちらに向けている彼は、白いスタンドカラーのシャツに格子模様の青いロンジーをゆったりとまとっていた。
「今日は火祭りであります。私は家族と来ました。一緒にどうぞ」
突然のことに戸惑いながらも、うながされるままついていった。吹き抜けになった広い部屋の中には、十メートル以上はあるかと思われる涅槃仏が置かれ、たくさんの人たちが談笑したり食事をとっていた。その一角で楽しそうに話しをしていた彼の家族が、にこやかに迎えてくれた。十歳ほどの孫娘がはにかみながら、皿に山盛りになった「チャーザンジョー」を私に差し出した。この、見かけも味も焼きビーフンにそっくりなチャーザンジョーは、祭りの日には全ての人に無料で振る舞われるという。旅の中でごちそうになるのはよくあることだが、シェダゴンパゴダで振る舞われたチャーザンジョーはその中でも格別な味であった。

 「山崎中尉はたいへん親切でした」
戦時中、日本語学校で日本語を学んだという彼は、言葉を確かめながらゆっくりと語った。日本軍は戦時中ミャンマーを三年間支配していたのに、非常に親日的なこの国の人たちを不思議に思い、戦争時代のことを彼に訊ねたのである。
「日本兵は皆親切だったのですか」
「悪い兵隊もいました。憲兵隊は大変怖かったです。スパイだと疑われて殺された人もいます」9401201.jpg (21318 バイト)
「ミャンマーの人たちは恨んでいないのですか」
「私たちは仏教徒です。仏教では、憎しみは悪い心です。憎しみは憎しみを生むだけです」
孫娘が、何を話しているのかと不思議そうな顔をして私たちを見つめていた。

 涅槃仏も私たちを見つめていた。薄く目をあけた涅槃仏は、かすかに微笑んでいた。日本の仏像のような近寄りがたい厳しさは全く感じられない。全てを許し受け入れる柔和な表情。まるで、仏に抱かれているかのような気がした。表ではパゴダが金色に輝いている。その光は全ての人に等しく降り注いでいた。私もその光を浴びたくなり表に出た。

 西方浄土・・・。

ふと、こんな言葉が浮かんだ。西方浄土には阿弥陀如来が住む。阿弥陀の語源の一つは「無限の光」だという。そして、浄土教の生まれた中国から見るとミャンマーは西の彼方。黄金に輝くパゴダとそこに集う信仰深き人々を見た当時の中国人は、この国を西方浄土だと信じたのに違いない。こんな考えにとらわれながら私はぼんやりと立っていた。

 あたりには、ゆっくりとした時間が流れていた。蝋燭に火をともす人も仏に花を捧げる人も、スローモーションのように動いている。争いも憎しみも欲望も言葉も時間も溶けていった。真っ白な満月が東の空に張りついていた。

 

エーヤーワディ河

 ミャンマーの人たちに、一番好きな場所を訊ねると、パガンという答えが返ってくる。ミャンマー中央部の乾燥地帯、エーヤーワディ(イラワジ)河の東岸に、このパガンという小さな町がある。そこには、四十平方キロほどの土地に二千二百とも五千ともいわれる仏教遺跡が広がっている。カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボルボドールと並び、世界の三大仏教遺跡とされている。

 十一世紀、ここを拠点にしたビルマ族のパガン王朝は、アノーヤター王の時代、ミャンマーで初めての統一王朝となった。その当時すでに腐敗していた大乗系仏教を嫌った王は、上座部仏教を王朝の基礎とした。そして、人々はパゴダや寺院の建立にはげむようになった。パゴダや寺院を建立することは、この世に生る人たちにとって最高の功徳だからである。しかし、十三世紀、元寇との戦いで日本に神風が吹いたころ、この国にもフビライの軍が侵入しパガン王朝は滅んでしまった。

96me02.jpg (7508 バイト) その功徳の跡を一望しようと、早朝、タビニュという寺院に上った。国会議事堂に似た姿を持つタビニュ寺院は、パガンで最も高い六十一メートルの高さを誇る。一番上のテラスに出た。亜熱帯とはいえ、日の出前の一月の風は冷たい。 東の空が紅く染まり始めた。すぐ近くの遺跡がぼんやりとシルエットを現す。空はさらに明るくなり朱色に変わった。その色はパガンの赤い土に染みわたっていく。見渡す限りパゴダや寺院が広がっていた。芥子粒のように見える遠くのものは朱色に溶けていた。畑の真ん中には、半分崩れてしまったパゴダがあった。その近くを紅い衣をまとった二人の僧侶が托鉢に向かっていた。

 八百年余り前までは、王朝の都であったこのあたりも、今では畑が広がる小さな町に変わってしまっている。その中で土に帰ろうとしているパゴダの姿を見ると、「諸行無常」という言葉が思い出される。このまま朽ちてしまうのが遺跡の自然な姿なのだろう。

 午前中の早い時間に遺跡から戻った。地元の人は冬と言っているこの季節であるが、日中はやはり暑い。ゲストハウスに戻り、オーナーの家の庭で籐椅子に座って涼んでいた。頭上には棚仕立てにされた「サクバン」という名の赤い花が燃えるように咲き誇り、やわらかい陰を作っていた。その下にはバケツが置かれていた。時々小さな水音が聞こえてくる。中を覗くと、かすかに波立つ水面の下に三十センチほどの川エビがじっとしていた。今日の夕食になるのだろうかなどと考えながらぼんやりと見ていた。9805933.jpg (10491 バイト)

 「パズン・・・、エーヤーワディ・・・、クドー・・・」という大きな声が突然響いてきた。振り返ると、近くに住む顔見知りのおばあさんが一生懸命にしゃべっていた。オーナーの姪に英訳してもらった。

「一緒にエーヤーワディ河に行ってこのエビを返しましょう。良い功徳になります。」

さっきまで食卓に上る姿を想像していた私には、不意をつかれた言葉であった。彼女の顔を見ると、にこにこと笑っていた。

 十五分ほどの道のりを歩き、エーヤーワディ河の岸辺に立った。女性たちが洗濯をしている。遠くに見える向こう岸がかすんでいる。おばあさんはロンジーを少し持ち上げ、薄くにごった河の中に進んだ。私もバケツを持って後に続いた。水面が膝のあたりまできた。立ち止まった彼女は私に向かって大きくうなずいた。バケツを静かに沈める。エビは自分の身に何が起こっているのか分からないようで、ただじっとしているだけだ。おばあさんが手で優しくうながした。その瞬間、大きく跳ね、次にはもう見えなくなった。彼女は隣で手を合わせていた。中天高く太陽が輝き、河は何もなかったかのように静かに流れていた。

 

水壺

 おばあさんが口にした「クドー(功徳)」という言葉は、通湊低音のようにミャンマーの人たちの中に流れている。他の国と比較すると信じられないほど親切なミャンマーの人たちを理解する上で、これは重要な言葉である。この言葉から分かるように、この国の人々の背後にはいつも仏教がある。仏教といっても日本の大乗仏教とは異なり、釈迦の元々の教えにより近い上座部(小乗)仏教である。9603906.jpg (21603 バイト)

 上座部仏教での究極の目標は「涅槃」に到達することであるが、出家して修行をしているわけではない在家の人々にとってそれは不可能に近い。一般の人にとって実現可能な目標は、輪廻転生を繰り返す中でより良き次の転生であり、人々はそれを願っている。人は生きているときの徳の多寡によって来世が決められる。そのため、今の生のなかでできるだけの功徳をしようとする。パゴダや寺院を建てることは功徳であり、僧侶に布施をしたり、木を植えたり、客をもてなしたりする行為も功徳である。この他者への善行は、相手が知らなくても良いし、相手がどう受け止めるかも問題ではない。あくまで自分自身の問題である。

 この功徳が形となったものとして、水壺がある。町の中、村の中、木陰、家の前、路上、いたるところで棚の上にのった水壺を見かける。四十度を越す日もめずらしくないミャンマーであるが、この中の水は冷たい。壺の表面をさわるとしっとりと濡れている。素焼きの壺をしみ出た水は水蒸気となり、そのときの気化熱で中の水を冷やす。この水を毎日用意しているのは、隣の家のおじさんであり、おばさんである。そして、渇きをおぼえた人は誰でもいつでもこの水を自由に飲むことができる。水を用意する人には、社会に奉仕しているのだという気負いはないし、水を飲む人にも、他人の世話になっていると引け目を感じることもない。飲むことによって水壺の主に徳を与えることになるのである。与える者は与えられ、与えられる者は与えている。素朴な素焼きの水壷にこの国の人々の秘密を見たような気がした。

 私も木陰に置かれたこの壺の水を飲みたくなった。備え付けのカップですくい、口に近づけると、ひんやりとした感触が唇に伝わった。一気にそれを傾ける。口の中でいっぱいになった水は、喉から胃へ、そして体全体に広がっていった。口からあふれた水は足下の乾いた赤い土に鮮やかな染みを作った。

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 私が訪れたのは乾季の最中であったが、今はもう雨安吾の季節。恵みの雨は壺の水のようにミャンマーの大地に染みわたり、シェダゴンパゴダの金箔を濡らし、憎しみを流した人や、生き物の命を慈しむ人、そして全ての人々に等しく降り注いでいるに違いない。

文・写真  後藤修身(1995年7月)
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