山の町の日本語学校
 

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「私は、ビルマ人です。」
ウラミンさんの流暢な日本語の後に、五人の生徒たちも元気よく繰り返す。大きな仏壇のある広い部屋に、山の町カローの明るい日が射し込んでいた。

ウラミンさん六三歳。一九三二年、サガインで生まれる。

ミャンマー中央部に位置し、一四世紀と十八世紀には王都でもあったサガインは、日本軍とイギリス軍の激戦のあったところでもある。今でも数えきれないほどの白いパゴダ(仏塔)が残っている。

彼が十歳、一九四二年にそのサガインにも日本軍がやってくる。
「日本人は自分たちと同じ仏教徒だから、よい人ばかりだと信じていました。実際に日本人と会うと、親切な人も多かったんですが、お坊さんをなぐったり女性を引っぱっていった軍人もいました。」
ビルマでは僧侶は非常に尊敬されていて、いくら戦時中でもなぐるなど想像すらできないことだ。それを、仏教徒のはずの日本人がしていたという。
「でも、嫌いだという感情はなかったです。友達になった人もたくさんいました。」
子供好きの軍人との個人的交流が彼の心をときほぐしたようだ。そして、彼は日本語学校に入学することになった。ビルマでは終戦までに五十数校の日本語学校が設立された。入学は志願制であった。その学校を卒業した後、通訳としてある部隊と一緒に行動することになる。そこの部隊長は子供が大好きで、非常にかわいがってもらったという。しかし、途中でマラリアにかかってしまったため、その部隊と分かれる。終戦となったのはその後であった。

終戦後は日本語の通訳の仕事が多かった。一九五八年には日本工営に入社する。日本工営がビルマにきたのは、戦後賠償で発電所を建設するためであった。一九六二年にはビルマ国営電力会社に技術者として入社する。

一九七〇年には送電技術の研修のため日本に行く。海外技術協力団の招きで、半年間「電源開発」に所属した。
「みんな親切でした。旅行にも行きました。でも、日本人は毎日忙しいですね。」

一九九二年の定年の後、奥さんの実家のあるカローに移る。カローは英国植民地時代に避暑地として発展した町なので、暑期でもそれほど暑くなく過ごしやすいところである。そしてまた、日本の山を思いださせる風景が広がっている。

そのカローで日本語学校を始めたのは二年前からだ。今まで一八人に教えてきた。現在、女子生徒四人と男子生徒一人。一日二時間の授業で土日は休みである。部屋の中では熱心に、そして和やかに授業が続いていた。ときどき冗談がとびかう。生徒たちに日本語を習い始めた動機を聞いてみた。

タンダートゥンさん二十歳。タウンジー大学一年生、物理専攻。
「日本人と会って話をしたい。」

マイパールさん一九歳。去年高校卒業。
「ミャンマーにきた日本人と話をして友人になりたい。」9503003.jpg (22637 バイト)

ソーソートゥウェさん二二歳。ヤンゴン大学三年生、物理専攻。
「日本に行ってみたい。日本の古い文化に興味がある。」

インインテッさん二三歳。タウンジー大学2年、動物学専攻。
「日本語の旅行ガイドになりたい。」

タンチョウトゥさん二〇歳。高校卒業後、家の商売の手伝い。
「趣味でやっています。」

いろいろな答えが返ってきた。しかし意外にも、「日本語は難しくない。」という意見は同じであった。ビルマ語は文法が日本語と似ているので、漢字を使わない限り、彼らにとってそんなに難しい言葉ではないようだ。

「やま喫茶店」という日本語で書いた看板を掲げた喫茶店を奥さんと子供たちとで営みながら、日本語学校も続けているウラミンさん。偶然ここを訪れてお世話になった日本人旅行者も多い。
「学校は、今まで日本人にお世話になったお返しだと思っています。」
ミャンマー人らしく、謙虚に今の心境を語っていた。

文・写真 後藤修身 (1994年)

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