ヤンゴンの日本人墓地
ヤンゴン郊外のタムエ地区。十月も半ばになると雨期も終わりになってきたのか、雲のあいだから太陽がときどき姿をあらわす。緑の中にたたずむ日本人墓地。それまでふき出ていた汗が今度はひんやりとして気持ちがよい。百年近い歴史がそうさせるのか、別の時間が流れているかのようだ。 ここの始まりははっきりしない。明治時代から自然と日本人の墓が集まってきたようだ。日本とミャンマーの歴史的関係というと、「ビルマの竪琴」や「インパール作戦」に代表される太平洋戦争がまず思い出されるのであるが、実際にはもっと昔から日本人がきていた。今では、古い墓は文字の判読が困難だったり、新しい墓碑になったりしていて分かりにくいのだが、明治期の墓は女性が多いという。それも長崎県をはじめとする九州の出身者が多い。彼女たちは、いわゆる「からゆきさん」としてこの地にやってきたのだ。一九一〇年前後には数百人の「からゆきさん」が生活していたという。山村から当時としては異国の果てまでやってきた若い娘たち。彼女たちはそのまま骨を埋めて、人々の記憶から忘れ去られようとしている。 ここが正式に日本人墓地として開かれたのは昭和一五年という。太平洋戦争関係の人たちの墓も多いが、医者などの職業が書かれた人たちの名前も目にする。ここにいるだけで日本とミャンマーの関係をかいま見ることができる。 現在、ラトンさん(六七歳)とミンカインさん(四七歳)の家族で管理されている。ラトンさんは三〇年前から、ミンカインさんは今は故人である父のティーウさんから引き継いでここを守っている。墓地は緑が多く、きれいに掃除されて ここの隣にはミャンマー人の墓地がある。そこは日本人墓地とは違って、野ざらしになっているという感じである。というのも、上座部仏教の存在が非常に大きなこの国では、墓を否定した釈迦の教えから、墓があまり重要視されていないからだ。あるミャンマー人の話だと、半数以上の人は墓をつくらないという。それに、ミャンマー人には「姓」はなくて個人名だけというのからもわかるように、家制度そのものが希薄であるため、つくっても個人の墓だけである。また、墓地と寺とは全く別の存在である。「仏教は生きている人のためにある。」というのをそのまま守っているのは、この国らしいあり方だ。 百年近く続いてきたこの日本人墓地であるが、ここにも時代の波が訪れつつある。ここ一帯の再開発のため、近々移転しなければならなくなったのだ。私が今目にしているこの光景は変わってしまうかもしれないが、「諸行無常」という言葉のとおり、これも自然のことかもしれない。これからは新しい場所で新しい墓地が、日本とミャンマーの関係を見続けていくのであろう。 |
文・写真 後藤修身 (1994年)