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 いつも安宿に泊まっている。
 ヤンゴンで5ドル、地方だと2ドルほどの本当の安宿だ。好き好んで安宿にしているわけではないと言いたいところだが、実のところ、なんといっても安いし、それに落ち着けるからだ。それでも、ときどき高級ホテルのロビーで人と待ち合わせだけしたり、コーヒーショップでコーヒーだけ飲んだりする。ミャンマーでも高級ホテルがいくつかあり、行ったことはある。その中でストランドホテルだけは他のホテルと違う雰囲気を感じさせた。歴史がそうさせるのであろうか。一度でいいから泊まってみたいと思わせるものがあった。一泊500ドル出せば誰でも客になれるのだが・・・。
 と、私にとっては高嶺の花だったのだが、99年の2月、この夢が実現した。別に、宝くじが当たったというわけではないが、二泊もしてしまった。

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ヤンゴン港に面しているストランド

 ストランドの歴史は古い。1901年に英国の企業家 John Dawood が建て、その後 Sarkies 兄弟の所有となった。「スエズ以西で最も素晴らしいホテル」と、1911年に発行した Murray's Handbook for Travellers in India, Burma and Ceylon の中で評されている。また、サマセット・モームゆかりのホテルとしても有名である。彼の書いた一連の南洋小説には、当時の英国人の植民地に対する感覚が如実に現れていて興味深い。そこには、支配者側の人間としての無自覚な傲慢さを感じる。その点、「ビルマの日々」を書いたジョージ・オーウェルには、自分たち英国人自身を客観視しようとする姿勢がうかがえる。こういった態度は当時としては珍しかったようだ。話しがちょっとそれてしまった。61年から88年までの社会主義時代、ストランドはビルマ政府に接収され、不遇な時代を迎える。満足な維持費もなく、過去の栄光だけの存在となった。私は87年に、ちょっとだけ足を踏み入れたことがあった。かび臭さを感じる古びた建物で、高い天井にファンが回っていたことだけ記憶にある。この社会主義時代も終わり、90年代初めから改装工事を行い、94年にはオリジナルの姿をできるだけ残した新しいストランドに生まれ変わった。

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右側のテーブルがレセプション

 1999年、2月のある日、小汚いバックパックをかつぎロンジーをはいた日本人がストランドホテルの正面ドアの前におずおずと立つと、ドアボーイがにこりと笑顔を見せてドアをあけてくれた。こういった客になれているのか、いやなれているはずはないが、客を格好で差別していないようだ。レセプションには見えないレセプションで宿泊簿に記入していると、40歳ほどと思える金髪でえらくハンサムな男がやってきた。まるでハリウッド・スター。総支配人のJohn Reed氏である。このハンサムマネージャーと握手をする。きっと、女性客はこれだけでうっとりしてしまうに違いない。

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入り口から見た部屋の中

 部屋に案内される。二階の部屋で、なんとスイートだ。といっても、ストランドにはスイートしかない。全部で32部屋、全てスイートだ。私の部屋はSuperior Suitesで、広さは100平方メートルほどありそうだ。テーブルの上には果物が満載されていた。これは飾り?いや、飾りだけで本物のフルーツを置いているわけはないだろう。たぶん食べてだいじょうぶなんだろう。自問自答しながらも、ついに葡萄を数粒口に運んだ。すると当然なことだが、びっしり粒が詰まった房の一部が欠けてしまった。それで、房をそっと裏返しにした。いやはや、我ながら小心者だ。

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これが問題のフルーツ
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スタッフはもちろんロンジー姿

 安宿に泊まる理由のひとつとして、スタッフやオーナーからすぐに名前を憶えてもらえるし仲良くなれるというのがである。大きなホテルではこうはいかない。なれない高級ホテルということで多少緊張していた私であるが、それは杞憂に終わった。すぐに名前を憶えてくれたし、スタッフの人たちとも気軽に話しができる。でも、決してなれなれしくはない。節度を持った態度だ。客室係りの女の子に写真モデルを頼むと快く応じてくれた。
 「今度来たときに写真をちょうだいね」
もちろん、4月に再訪したときにプリントした写真を持っていった。残念ながら彼女は休みの日で会えなかったが。
 写真といえば、ストランドのティーショップでのひとこま。紅茶を飲んでいた初老の欧米人夫妻をファインダーの中に入れて撮ろうとした。
 「すいません、写真を撮ってもいいですか?」
 「ノー!」
にこりともせず、こちらをにらむように返事をしてきた。有無をいわせない言いようである。アジア、特にミャンマーでこういう断り方をされたことはなかった。「なんだい、断るにしてももうちょっと言い方があるだろう」と、思いながらも、おとなしく引き下がった。アジアを旅していると、時々こういう欧米人と出会う。こんな経験を何度もすると、彼らに対して偏見を持ってしまう。注意しなければいけない。

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蛇口が調子悪かったが、ピカピカの風呂

 二日目の夜だった。11時過ぎの遅い風呂に入ろうとした。バスタブのお湯いっぱいになったので止めようとしたが、なぜかいくら栓をひねっても完全には止まらない。ストランドの風呂だから故障ではなく私の操作が悪いのだろうと、いろいろと試してみたが分からない。仕方がなく客室係りに風呂を見せた。私のせいではなく故障だったようで、すぐに設備エンジニアを呼んできた。
 「ちょっと時間がかかりますから、部屋を移りますか?」
 「いえ、いつも夜更かししているのでだいじょうぶですよ」
15分ほどして修理完了。ピカピカの風呂を汚さないよう注意してゆったりしたバスタブに浸かった。

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ハイティーは17ドル
彼女は残念ながら友人の奥さんです

 ところで、ハイティーというのをご存知だろうか。イギリスで午後のお茶として飲むもので、紅茶といろいろなお菓子がセットになっている。英国系の高級ホテルでは一般的らしい。私は知らなかったのだが、ヤンゴンに住む日本人の友人からこの話を聞いた。その友人夫妻と一緒にストランドのティーショップに入り、ハイティーを頼む。紅茶の種類がいくつかあったが、わけがわからないので適当に指差した。しばらくして紅茶と一緒に、三段重ねの皿の上にケーキなどのお菓子がいろいろ載って出てきた。イギリスは食べ物が「有名な」国なのであまり期待していなかったのだが、ひとつだけ除き、あとはどれもおいしかった。ただ、これらのお菓子がイギリスに由来するのかどうか分からなかったのだが。友人夫妻も初めてのハイティーなので大喜びで、会話もはずんだ。
 私たちの席はちょうど窓際だったので、自然と目が窓の外へ向かった。ロンジー姿のミャンマー人たちが歩いていた。外は暑い日が照っているが、室内では天井のファンが風を送ってきて心地よい。外と内との二つの世界が窓で仕切られていた。サマセット・モームも同じようにここでハイティーを飲みながら窓の外を眺めていたのだろうか。こうした生活の中から彼が書いたような小説が生まれたのであろう。植民地時代の世界をほんの少し経験したような気がした。それでは自分はどうなんであろうか。ロンジー姿で安宿に泊まったり満員のトラックバスに揺られたりするのは、普通の人たちの中に溶け込みたいと思うからだ。だが、こうした旅の中でこの国の人たちを理解し近づけたと思っても、自分自身がミャンマー人になれるわけではない。あくまでも、「豊かな」国、日本から来た異邦人だ。ストランドでの心地よい時間が改めてこんなことを私に考えさせた。

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文・写真 後藤修身 (1999年)

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