「坊主」という生き方 ・・・ 働かずに食うということ
舟橋 左斗子
目次
1、美しい風景
2、妻帯を許さないミャンマーの仏教 / 僧侶が守る227の戒律
3、托鉢と物乞いはどう違うか
4、「宗教」よりも「科学」に近い仏教

妻帯を許さないミャンマーの仏教
 赤茶色の袈裟をまとったキラサ僧の口もとにはいつも微笑みがあった。会うたびに、無駄な贅肉のすべてをそげおとさんとばかりに細く細く痩せていき、ついには骨ばかりになってしまうのではないかと思うほどだったが、からだに反比例するかのように彼の話す言葉には力が増し、迷いがなくなっていくように見えた。はきはきと一言一言明瞭に区切って話す力強い声と、途絶えることのない口もとの笑みが、生きていることが楽しくてしょうがないと思わせる明るさに満ちていた。
 4年前にこの僧院で初めて会ったキラサは29才だった。自分と近い年代の彼は、別世界の「坊主」というより、自分の友人たちとだぶって感じられる生身の「人間」だった。しかし夜眠るときは横たわらず、籐椅子にからだを預けて眠っていると話し、理由を聞いた私達に「Because I'm afraid of desire」と答えた。同じ人間でありながら、妻帯もせず、もちろん子供も持たない、そのうえ横たわって寝ることまで避けようとするこの国の僧侶たちに当時の私は疑問を持ち、人間の自然な欲求をなぜそこまでして否定しなければならないのかと反感に近いものを感じた。「生産」を担う労働を一切せず、ただ仏陀の教えを学び、修行するだけの莫大な僧侶という集団の食いぶちを、あくせく働く貧しい一般市民がまかなっていることの不思議。この僧侶集団を見て、「自己の修行だけしか是としない個人主義的宗教」と否定した人達から、日本にもつながる大乗仏教が生まれたように、私にもその疑問が理解できなかった。
 この国の人たちに強く惹かれはじめ、仏教が人々の人格形成に影響を与えていないはずはないだろうと考えるようになってから、私は覚めた目でこの国の仏教を観察しはじめた。そのうち、仏陀が最初に説いた仏教が、一番純粋な形で継承されている国だということを知った。その、仏陀が説いた、なかでも最古の修行法を実践しているのだとキラサは言った。
 ミャンマーの中にもいろいろな僧侶がいて、キラサほど忠実にすべてを仏陀の教えのままに実践しようとしている僧侶は多くはないという気がするが、大学の数学科を出てから僧侶の道を自分で選んだキラサは、そうしなければ僧をやっている意味がないという。それがいやなら普通人の生き方を選べばいい、自分はビジネスをやっても成功させる自信があるのだから。科学から出発した明晰な頭脳が、話す言葉の端々にもあいまいさを許さない。
僧侶が守る227の戒律
 僧侶には守るべき227の戒律があって、一般に知られた、妻帯しないことや、昼の12時以降は食べ物を口にしないことなどの他にも、そんなことまでと思うような細かなルールが山のようにある。たとえば僧侶はお金をさわってはいけない、という戒律がある。部屋にこもっていじっとしているならともかくも、列車にもすぐ飛び乗って出かけるキラサのように活動的な僧侶にとって、それがどれほど手のかかることか。仏陀の時代ならともかくも今の世に可能なのかと思える。
 また、片手で差し出された食べ物は食べてはいけない。そんなことはみじんも知らない外国人などは容易に片手で食べ物を差し出す。しかし、たとえそれを食べなければ死ぬという場面であっても、自分はそれを食べることはできないとキラサ僧は言った。
 単独で女性と同室してはいけないという戒律もやっかいである。昨年、興味が湧いてきた私は、彼に頼んで短期間の宿泊瞑想をさせてもらった。個室で終日瞑想を試み、夜にはキラサ僧がその日の様子を聞きに来てくれるのだが、このときも必ずもう1人別の青年または少年を同行してきた。女性が2人いてもだめなのだそうだ。男性がもう1人以上いなければいけない。 キラサ僧に、227の戒律のうち、守るのがむずかしいと感じている戒律はどれかとたずねると、ほとんどないという。逆に「227のルールを守ることは非常に面白い」と言うのである。何が面白いのかというとルールを守れば守るほど、人生が素朴で無駄なきものになっていくのが肌身に感じられるのだそうだ。

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