|
舟橋左斗子 著 |
目次 |
1、「ありがとう」を言わない国 |
2、どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で |
3、正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜 |
4、世にも美しい男の園 / アマラプラの僧院探検 |
5、大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在! |
6、時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中 |
|
正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜 〜 の一 |
「電気を消していいかな」 ホテルの部屋にはウーと私の二人だけだった。 「どうして?」 「政府の奴等に知られるとヤバイんだよ」… ウーは声を潜めてそう言った。 「わかった」… 彼の真剣なまなざしに、私は了承して明かりを消し、小さな声ではなしを再開した。私はこの、知り合って数日しか経っていない40歳そこそこの男を完全に信用していたわけではなかったし、男から自分の身を守らねばならないという緊張感もあったけれども、それよりも、私の部屋に場所を移す前のレストランで聞いたそら恐ろしいはなしに興味もあったし恐怖も感じていた。ここ数日でウーのことは随分わかったつもりでいたが、レストランで聞いたはなしは全くの初耳だったし、冗談好きのウーにそんな一面があったとは思いも寄らないことだった。 ウーは、ビルマ第二の都市マンダレーで、アンティーク商品を扱う小さな店を持つ、熱心な商売人だった。 マンダレーから東へ向かい、国境付近まで自分の足でアンティークを仕入れに行くというウーは、自分の店にある商品には絶大な自信を持っており、かなり年代物の 人形やシャン族のタペストリー、シルバーの装身具などのアンティークなどの他、ルビーやエメラルドなどの宝石も、店の奥の小さな引き出しの中に隠し持っていた。東南アジアの他の国のアンティークは、コレクター達によってすでにかなり荒らされており、価格が大幅につり上がってしまっていたりにせものが出回っていたりする中、ミャンマーは最後の歴史遺産の宝庫だという声も聞いた。もちろんミャンマーでもアンティークは国外持ち出し禁止なのだが、厳しい取り締まりがなされているわけでもなく、とはいえ鑑識眼のない私はそう言われてもただ眺めて楽しむばかりだったのだけれど、古い人形達やタペストリーのなかの動物達に囲まれた何となく神秘的な空間が好きで、よくウーの店に通った。 ウーにはもちろん奥さんもあったし子供もあった。けれどそのときウーが話し始めたはなしは、マンダレーに住む親しい友人達はもちろん、奥さんさえ知らないはなしだというのである。 私はミャンマーの旅半ばに至るこの日まで、まったくノーテンキな旅人だった。女が一人で夜出歩いても安全な都市なんて、世界中捜しても、そうないよね、と人に会うごとにこの国の安全を話題にしていた。もちろん、軍事政権下で、アウンサン・スーチー女史が囚われの身のままであることは知っていたし(1995年旅行時)、”GOVERMENT“という私の何げない言葉に、人々が過剰な反応を示すことには気づいてはいたけれど、ミャンマーを旅し、人々の限りない優しさに包まれ親切にまみれて過していると、ついつい平和な気分になっていたのも事実だった。 この夜二人で食事しながら初めて話題が政治のことに及び、 「さとこのことは信用してるよ。何故ってさとこは日本人だから。親父が日本人は信用していいって、常々言ってるんだ。」 と前置きしてから話し始めたのは、ウーの”裏の顔“のことだった。ウーのお父さんが日本人を信用しているのは、戦時中に共に働き、寝食を共にしたときの経験からだった。戦争中の日本人が、この国でも、いくつもの虐殺や殺戮、拷問を重ね、日本人に悪い印象を持つ人も多いと聞くなか、ウーのお父さんとつきあった日本人が良い人であったことをありがたく思った。 |
正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜 〜 の二 |
「今の政府はとんでもない。」 これまで太陽の光の下では、誰もが口をつぐんで話そうとしなかったことを、ウーはこの夜、せきを切ったように話し始めた。 ウーは、町の中でも顔の広い、熱心な商売人だった。誰もが彼はアンティークに造詣の深い、同時に結構やり手の商人であるし、逆にまた仕事一筋の、仕事にしか興味のない男であるとも見ていた。それは確かに彼のひとつの顔であったのだけれど、彼は意外にも、それは自分の本当の姿ではないと語ったのである。彼は国境に近い、シャン州の、ある反政府組織のメンバーなのだと言った。彼はそのことを隠して世を忍ぶ仮の姿で、アンティーク商を営んでいるのだと話した。 「15年前、僕らの国はもっとずっと豊かだった。今日も見ただろう? 二つや三つのあんなに小さな子供たちが、貴重な労働力として狩り出されるような状況は、そのころにはなかったんだ。」 川を渡る舟の船着場で、またミャンマーを南北に走る国営鉄道の要所の駅で、小さな子供たちは籐で編んだかごを頭に載せて、果物や菓子、水などを売り歩いていた。まだまだ”商売より好奇心“な少年もいたし、親の言いつけに忠実に、真剣な目で、ただひたすらに売り物を連呼し続ける子供もいた。 1962年以来、30年以上続く軍事政権の下で、ミャンマーは経済的な困窮を極めていったのだという。 「昔はタイなんて目じゃなかった。」 ウーは肩を落として言う。 「それが今ではこの大差…」 政策のまずさを嘆くウーの声は、半ば諦めの心境の中で、自分もその運命共同体の一員として話す”自嘲“のようにも聞こえたし、一歩引いて他人事として語る冷静な怒りにも聞こえた。 「国民がこれほど貧しい生活をしているのに、軍の人間は金持ちなんだ。給料がケタ違いに高くてみんな、豪邸を持ってる。」 しかし、経済政策への腹立たしさにも増して、ウーの最大の怒りは民主主義、自由の抑圧に対するものだった。私たちがはなしをしているホテルのドアの前を人が通る気配がする度にウーは 「しっ」 と言って、人指し指を口にあてた。そして足音が通りすぎるのを待ってから、前より声のトーンを落としてはなしを再開した。 「政府の奴等はいつも、反政府主義者がいないか、覆面で嗅ぎ回っているんだ。俺たちの仲間は何人も、捕まえられて監獄にいる。ひどい拷問を受けているんだ。片目をなくしたり、手をなくしたものもいる。正直言って俺も怖い。みすみす捕まるようなことはしたくない。だから商人として普段は暮らす。メンバー以外とは政治のはなしをしない。組織に属していることも誰にも話さない。みんな俺のことを、金に目のない商売人だと思ってるよ。それでいいんだ。俺は、水面下で少しづつ動ければいい。」 |
正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜 〜 の三 |
私は自分の手足がどんどん冷たくなっていくのを感じた。密室の中で誰にも聞かれないように話していたとは言え、私は知らぬ間に、自分の身さえもが危険にさらされ得る可能性の中に入り込んでいた。 もし万が一、政府のスパイとやらに聞かれていたら、ウーが捕えられる可能性があるのはもちろん、私自身がどうされるのか予想もつかないことだった。聞けば聞くほど、日本ではあたりまえすぎるほどの民主主義の正論がこの国では通らず、信じられないような力の論理がまかり通っているのだ。もし、私たちが日本にいて、現政権への批判を口にした途端に、ひそかに連行され拷問され、力の前に手出しできない状況に陥れられたとしたらどうだろう。それを恐れるがために政府がどんなにひどいことをしても口を閉ざしてなにも言えないでいるとしたらどうだろう。今の私たちには想像さえできないのではないか。 88年3月、国内に鬱積し続けた不満が爆発し、各地で大規模なデモが繰り広げられたとき、国軍は何の武器も持たない群衆に銃を向け、約半年の間におびただしい流血の惨事が続いた。記憶に新しい北京の天安門事件はたまたま世界のマスコミの目の前で起こったために多くの悲惨な映像が流されたが、ビルマの流血は、規模も残酷さも天安門に劣るものではないのにマスコミが閉め出されていたため伝達が遅れたが実際にほんの数年前に起こった事実である。さらに非暴力で国のあり方を語り、89年の総選挙で有権者の8割の支持を得た、アウンサン・スーチー氏率いる政党NLDが、選挙の結果にも関わらず政権を譲り渡されないばかりか、軍を誹謗しただの国家秩序を乱しただのという罪状によるメンバーの逮捕をはじめとして、「国家を破壊分子から保護する法」に基づくスーチー氏の自宅軟禁など、不穏なことが続いた。全世界の誰もがおかしいと思い、大きな声で批判してきたというのに、国民は小声でひとこと話すことさえ許されていないのである。 私がミャンマーを訪れた当時、スーチー氏はまだそのままでいつ解放されるとも知れぬ6年目の自宅軟禁状態が続いていた。 「みんなスーチー女史を愛しているんだよ。SWEETな俺たちのSISTER、だからスゥィスターと呼んでる。」 そう話すときのウーの声は、心なしか明るく、誇らしげに聞こえた。どうにも手を出せない、自由を奪われた日常の中で、スーチー氏は彼らの希望の星だった。 「俺は真理のためには死ぬつもりだ。」… ウーは、突然そんなことを言った。 ”I CAN DIE“という思いがけない言葉に、私は不意を突かれた。いきなり胸を揺さぶられる思いだった。 平和ボケで政治に関心も持てなくなってしまった日本では、もはや政治家の口からさえも聞けない言葉を、ごく普通の一般市民が口にするのに対面して私は、自分の身の危険をも感じる緊張感の中で、何か、長く体験したことのない、すがすがしい感動を覚えた。そう言えば、”GOVERMENT“という言葉を口にする私を制したマウンマウンも、同じことを言うかもしれない。私は、それまで出会ってきたこの国の人々の穏やかな笑顔をひとりひとり思い出していた。あれほど優しくもの静かな物腰の裏に、みんな”I CAN DIE“というひとことを隠し持っているのかもしれない、とふと思った。自分一人の命より、真理を大切にする人達は恐ろしい。そんなふうにミャンマーを見渡すとき、大人しくて平穏に見える人々の心の底にひそかに燃える熱い炎が、いつでも連なり、燃え上がる可能性を秘めているのだという気がして、この静かで心優しい国の底力を感じた。 |
|
注) 本文中の人物の名前と職業は変えています
|
文:舟橋左斗子
|
|