ビルマ一カ月の旅ばなし
舟橋左斗子 著
目次
1、「ありがとう」を言わない国
2、どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で
3正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜
4世にも美しい男の園 / アマラプラの僧院探検
5大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在!
6時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中

大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在! 〜 の一
 パガンという町はミャンマーの古都だと聞いていた。首都ヤンゴンから直接入ったマンダレーは、古い車ばかりとは言え結構交通量が多く(それはもうアンティークカー博物館ができてしまいそうなおもしろさ!)、それに高層とは言わないが、四階五階建ての背の高い建物も多くて、商売上手の中国系の人達が進出し、発展を遂げつつある小さな「都会」だったので、私はマンダレーからパガンへは、日本で言う古都「京都」をイメージして、わくわくしながら向かった。私は「自然」にも増して「街並み」を見て歩くのが好きなので、なんと言っても海外へ出かけたときは、古い町でこそ見ることのできるその国らしさというのがあるから、世界中建物自体はさして変わらなくなりつつある新しい町よりも、古いまま残っている町には興味もぐんと湧くのである。
 ところが、マンダレーから乗ったバスがパガンエリアに入っても、何だか風景は田舎のままで、どう見ても「京都」とは程遠い感じなのである。パガンのターミナルタウンであるニァゥンウーから観光の中心エリアであるオールドパガンへ向かう途中の町に私の目指すホテルがあって、トラックバスの運転手氏が親切にもホテルまで送り届けてくれたのだが、ターミナルタウンのニァゥンウーを過ぎると、辺りはますます寂しくなってきて、乾いた土とポツリポツリ突っ立っている木々、時折の建物という風景は、いくら「過去」の都とは言え「都」へ向かう道筋とは思えなかった。「京都」とはあまりに違う様子だった。しかしそこは、のどかで幸せそうな「村」だった。少し拍子抜けした気分で辺りを見回した。

 親切なドライバー氏が、マンダレーとパガンを往復する仕事の中で今日はパガンの自宅に泊まる日で、これからうちへ帰るから良かったら食事をしていけと言ってくれたので、お宅へ伺ってノロノロしていたため、ホテルに落ち着いたのはもう夕方だった。

 シャワーを浴びてくつろいでいると、家庭的なプライベートホテルの若いマネージャーが、今から夕陽が落ちるので見に行くとよい、とアドバイスに来てくれた。促されるままに出かけようと道を尋ねると、近道はややこしいから案内させますと、ホテルオーナーの息子で小学生の少年オゥオゥ君がついてきてくれ、二人で自転車で出かけた。ところがこれがなかなか大変だったのである。

 パガンの村間を結ぶメイン道路は一応舗装されていたが、平行する舗装道路をクロスしてつなぐ小道は砂地で、ここを自転車で渡るには結構なテクニックと力が必要だった。少年は小柄な体で、大きなガッシリした中国式自転車を巧みに繰り、ぼうぼうに生えた背の高い草の間に少しだけ開けた、砂浜のように深い砂の道をスイスイと走っていった。私は必死で追いかけたが何度も遅れ、少年は時折振り返っては立ち止まり待ってくれたり、もっと右側を走るようになどと手振りのアドバイスをしてくれたりして、誘導してくれた。こんな場面では、現地の子供の方が観光に来る大人よりずっとちゃんと生きる力を持つわけで、旅人は、子供に優しくされて無力な自分を発見し、不思議と素直な気持ちになれる。大人と子供が逆転して、自分は何もできないガキンチョに戻る。八歳や九歳の子供が、自分より大人に見える場面は日本ではあまりないのだが、旅の中ではしょっちゅうある。子供はその土地土地で生きるすべを知っていて、良くも悪くもとにかくたくましい。

 そんなわけで、すぐそこだと言われて出発したわりには遠かった道のりを経て、少年に導かれるままにゼェゼェ言いながらシュエハウンジー寺院にたどり着いた。

 寺院と言ってもそれは、石を積み上げて作られた、荒れた小さな無人の塔だった。何百年も雨風にさらされたままの黄土色の塔は、固いものをぶつければポロポロ崩れそうな状態だったけれど、こんな古い文化財のわりには誰といって守る人もなく、内側の階段をつたって、自由にその上部に登ることができるようになっていた。私はまたまたオゥオゥ少年に足元に気をつけるようになどと導いてもらいながら、一段ずつが深い、暗い階段を登っていった。シュエハウンジー寺院はそれほど大きな寺ではなく、せいぜいビルの四階か五階くらいの高さにしか登らなかったと思うのだが、登りきると扉はなくてそのまま、塔をぐるっと囲んだベランダ状のフロアに出た。

 そしてそこで、いきなり私は息をのんだ。

 360度拡がる黄色い大地には、何ひとつ、高層なものや近代的なものはなかった。遥かな大地の上にポツリポツリと、しかし無数に散らばる大地と同じ色の過去の時代の塔と、乾いた緑の木々が、世界中どこを捜しても見つからないだろうと思われる、雄大な、しかも優しい表情で迫ってきた。沈みかけた黄色い太陽は、強すぎない柔らかな光を大地に落とし、土の色と塔の色に透明なハーモニーを響かせていた。息をのむダイナミックさだった。「京都」のような古都を諦めた後の、予想外の感動だった。遥かな風景は、まったく近代化されていない分、京都のように変化し続けた町では忘れがちな、想像力をかきたてられる魅力があった。

 パガンは、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのボロブドールと並ぶ世界三大仏教遺跡のひとつで、観光客の訪れる土地だったが、聞けば、現在は住民人口たった3000人そこそこの、小さな村だった。人口150万の都市、京都と風景が違うのも当然のことだった。「古都」というだけでとんだ勘違いである。パガンが栄えたのは主に11〜13世紀のこと。7〜800年も昔だが、京都が日本の都となった平安京遷都(794年)よりは数千年も近年のことである。1057年、パガンの地に初めてのビルマ統一王朝が築かれ、それから200年、ビルマの首都として華やかな仏教文化が花開いていったのだという。

 最盛期には、寺院は約5000あったが、75年の地震でかなり壊れたりして現在は半分位になっているということだ。今では石造の寺院だけが静かに残るパガンだが、当時は賑やかなこの国の中心地だったのである。今では木造の家家は皆朽ち果て、黄土色の大地がむき出しのまま太陽にさらされている。

 夕陽が落ちるまで私たちは、古都パガンの中に身を置いて、大地と寺をじっと見つめていた。オゥオゥ少年は退屈だとか帰ろうとも言わずに、私の納得のいくまで待っていてくれた。

 このステキな展望台で、ヤンゴンでも見かけた日本人青年に会った。彼も小さな少女に連れられていた。この村では子供たちが、外部からやってくる大人の相手役のようだった。

 帰りの道で、自転車をこぎながらオゥオゥ少年が私を呼んで後ろの空を指さした。振り向くと太陽の落ちてしまった西の空一面にかかった薄いうろこ雲が、全部濃いオレンジ色に染まって、パガンの大地を覆っていた。ものすごい夕焼けだった。
大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在! 〜 の二
 次の日からは馬車を一台頼んで、昨日上から見渡した数限りない寺院のひとつひとつをまわり始めた。パガンの寺院の中には、四方向に向かって四体の仏像が奉られたものが多かったが、ほとんどが当時のまま放置され、色あせたり一部が壊れたりしていた。しかし他地域の寺院の、手入れのゆきとどいたよく似た顔の仏像とは違って多彩な表情で、お地蔵様のようににこやかでかわいらしいものから、妙に手が長くてかなりデフォルメされているのに、ものすごく大きなおしゃまな大仏様まで、日本の大仏のイメージとはかなり違ったバリエーションで楽しませてくれた。私は、ある寺院の壁画にあった、男だというのだけれどまるで女性のように色っぽいシヴァ神が気に入って、これをシルクの布に模写して売られていたタペストリーを一枚買った。
 パガンの遺跡のうち、いくつかには遺跡守りのような人がついていた。初老の男や乳飲み子を連れた母親ばかりではなく、何故だか働き盛りの年齢と見える男もあった。彼らは観光客が来ると案内したり、暗い寺院ではライトを灯したり、はげ落ちそうな壁画がまだ比較的きれいに残っている部屋の鍵を持っていて開けてくれたりした。聞くところによると彼らは月500チャット(約500円)で国に雇われているらしく、暇ではあるだろうが、いくら物価が安いとは言っても食べていける給料ではないと思えた。

 観光客からのチップが副収入に違いなかった。私も馬車の車掌のウィンゾウ君に促され、彼らに5K、10K程度のお金を渡した。彼らはお金を請うことはなかったが、渡されたお金は受け取った。中には子供もいた。たぶん雇われているのではなく、勝手に働いて、観光客からもらえる金をアテにしているのだと思えた。

 いくつもいくつもの寺院をまわるうちに私は、この観光地で初めて人にチップを渡すことに慣れ始めていた。最初は、親切でしてもらったと思ったのに、本人からでないにせよチップをと言われたときには抵抗があったのだけれど、繰り返すと、あげる側の自分、もらう側の貧しい村人たち、という図式がいつのまにか不自然に思えなくなってきていた。しかしここには落とし穴があった。喜ばれることをしていると思い込みながら、もちろん彼らは半分商売のようにチップを期待しているのだから仕方なかったのだろうけれど、実はあげる側の私は少々傲慢な心理になりがちだったのだと思う。そのことに気づかせられたのも、この町では、やはり子供を通してのことだった。

 この国に入国してすぐ、ヤンゴンのボータタウンパゴダという寺院で、ぼろぼろに擦り切れた汚れたシャツを着た、小学校に入るか入らないかという年ごろの少年達に会った。最初は外国人の私への興味ばかりいっぱいで、手を引っ張ってあちこち連れて行ってくれたり、自分で買ったアイスキャンディをくれようとしたり、といった風で楽しかったのに、一旦私の持っていたお金の束を目にしたら途端、一番年上の少年が、マネー、マネー、と言ってずっと私の後をついてくるのにショックを受け、いくらついてきても一銭もあげなかった自分をもう忘れていた。

 貨幣価値と、持っているお金の量がけた違いに違う外国人のせいで、単にモノや金をねだる子供たちが増えるのはいやだと、そのときはとても嫌悪感があった。お金を目にした途端、態度を変えてしまった子供たちを見て、自分がこの国の子供を変えてしまうかもしれないという恐怖感に駆られた。物や労働の代価ではなく、理由もなくただ金を乞う子供というのは、国による経済事情はあるにせよ、そのときの私には受け入れられなかった。

 それがパガンでは、そんなことにもすっかり慣れてしまうようになっていた。特に子供たちは素直に喜んだし、観光地の子供の一部は、他地区とは違って悪びれることもなく、物や金をねだった。

 パガンに着いて三日目、私は馬車のウィンゾウ君に、近くに集落があるなら連れていって欲しいと頼み、パゴダめぐりの途中である村に立ち寄った。観光地のオールドパガンからは南東方向に少し離れた、観光客の立ち寄らぬ小さな村の入り口に足を踏み入れた途端、私を見つけた子供たちがわっと近寄ってきた。10人ばかりに取り囲まれ、わいわいと騒いだあと、今度は私を連れ、村を案内し始めたのである。

 大部分は小学生かそれ以下と思える小さな子供たちで、中には2つか3つの、もっと小さな子供を抱いたお兄さん、お姉さんもいて、ちゃんと親の手伝いをしながら遊んでいた。親分格の少年は15歳だと言い、一見小学生にも見えるきゃしゃに角ばった体つきと真っ黒に日焼けした顔で、元気いっぱいに集団を先導し、村の中の細い抜け道を案内しながら小さい子供をなだめたりと、テキパキした態度で私につきあってくれた。

 私は子供の頃、都会に育ったので、子とりにとられるから知らない人と口きいちゃいけませんなどと言われていつも緊張していたような気がするけれど、めったに外部の人間がやってくるわけでもない、こんな過疎の村の子供たちの、何をも恐れぬまっすぐな目は、大人の心をも洗ってくれるような気がした。人なつっこくて、好奇心いっぱいで、知らない人、知らないものが珍しくて珍しくて、ついて歩くことが楽しくてしかたないのである。親分の少年は、自分の家にも私を案内し、母親を紹介してくれた。ふっくらと肥えた、働く体型のお母さんも、息子のお客さんに、満面の笑顔を向けてくれた。こんな日は、歩いているだけで楽しい。

 私が豚やヤギ、農作業中の女性たちにいちいちカメラを向けて立ち止まると、子供たちもその辺りでうろうろと時間を稼ぎ、この国の男たちがよくやるように少年も、筒状の長いスカートのような青いロンジーを、ぱっと羽のように広げて結びなおし、いっちょ前な身繕い(?)をしたり。めいめいにウロチョロしながらみんなで村を散歩した。

 村を一周して子供たちと別れる前に、私はパガンでいつもそうしたように、そうだお礼をしなきゃ、と思い立ち、何のためらいもなく1K(1円くらい)札の束を取り出して、子供たちの前に差し出した。予想どうり子供たちは、ワーっと歓声を上げて手を出し、取り合うように札をつかんだ。

 ところが、一瞬、息をのむようにこの風景を見つめていた15歳の少年は、それまでの元気一杯の笑顔を一転して曇らせ、それから小さな子供たちを制したのである。
「やめろ!」
 そんな風に言ったのかもしれない。

 親分に怒られて子供たちは、自分のものはチャッカリ手に入れてから、素直に手を引っ込め、大人しくなった。

 しまった…

 私はその瞬間に我に返った気がして、自分のしたことを深く後悔した。

 外人観光客もやってこない小さな生活空間で、子供たちは私に、何も見返りを期待していなかったのである。小さな子供たちは、ただ素直にプレゼントを喜ぼうとしたが、物心ついた15歳の少年には、多いに違和感のある出来事だったに違いない。

 子供たちの素直な好奇心と親切に、よく考えもせずお金を出して、少年を傷つけたかもしれないことを、私は非常に悔やんだ。

 子供たちと私との間に一瞬、何か暗い空気が漂った。しかし私は短い時間の中で、少年がとても好きになっていたので、少年には誤解されたくない、私が本当に楽しかったしうれしかったことを伝えたいと思い、少年の表情を覗き見ながら自分で使っていたお気に入りの丸いウエストポーチを少年にあげることにした。

 よく伝わらない英語でゆっくり説明しながら、ポーチを少年に手渡したとき、少年の曇った顔がぱっと明るくなり、とびっきりの笑顔を返してくれたのである。

 心底ほっとして、それに何より少年の笑顔がうれしくて、別れる前に私はもう一度少年にカメラを向けた。ファインダーのなかの少年はやはり心から笑ってくれているように見えた。この一枚は絶対ナイスショットだと自信のあった少年のアップは、日本へ帰って現像してみるとナイスどころではなかった。あんなに笑ってくれたはずなのに笑顔なんてどこにもなく、写真の中の少年は、口を閉じ眉をしかめていた。とても不思議だった。

 旅の中で子供たちは、いつも私をとまどわせる。旅を続けるうち、出会う大人達は、出会ったときからある程度の見分けがつくようになってくる。しかし子供たちは違う。ある国では恐ろしくしたたかで、またあるところではものすごく純粋で、いつまでたっても見抜けずに失敗を繰り返すのである。

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