ビルマ一カ月の旅ばなし
舟橋左斗子 著
目次
1、「ありがとう」を言わない国
2、どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で
3正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜
4世にも美しい男の園 / アマラプラの僧院探検
5大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在!
6時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中

どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の一
「これで3000 、30$分です。あっ、ここはホテルのロビーですから、交換するのはまずいです。ドルの方は明日お会いしたときにでも頂ければ。」
 ポケットから財布を取り出そうとする私を制してマウンマウンは、一方的にビルマ通貨のチャットのぶあつい束を私の手に押しつけた。同じアジア系の顔立ちとはいえ日本人と比べるとかなり浅黒い顔色のせいで特別目立つ白い歯に、笑みをいっぱいにして「じゃ、おやすみなさい。」などと流暢な日本語でそつなく挨拶し、立ち去る。

 ミャンマーの若者の間では日本語を習うことがブームなのだという。マウンマウンは日本語ガイドの卵で、旅行代理店を通じて、ヤンゴンについたばかりの私の案内をすることになっていた青年だった。初めてミャンマーを訪れた2年前のことである。

 マウンマウンを送り出してから、札束を手に辺りを見回すと、フロントの若い女性と目が合う。”私は全部見ていたけれどね”とでも言いたげな優しい微笑みを送ってくる。ドキッとして、思わず私も微笑みかえす。小さいけれど隅々まで手入れの行き届いた清潔なホテルは、外国人観光客向けにクリスマスツリーを飾っていた。

 ミャンマーでは、95年1月現在の市場レートは1ドル100 (私は1kを大体1円と考えて計算していた)であったが、建て前のように設定されている公定レート(1ドル=5.8 )がある手前、当時両替は闇でやらねばならなかった。半ばオープンな闇両替だ。

 マウンマウンは入国初日の私にその便宜を図ってくれたわけだが、それにしても、初めて出会った何の保証もない外人に、領収書もとらずにこの国の公務員の2カ月分のサラリー(1カ月約1500k=約1500円)をポンと手渡してくるというのはどういうことだろう…これが、最初の疑問だった。

 それからというもの、毎日、どうも解せない不思議なことが頻発した。翌日の半日市内観光までを日本から予約してきていたのだけれど、マウンマウンは私一人のためにバン一台とドライバー、さらに見習中とはいえ、よく気のつく若い女性をひとり連れてやってきて、至れり尽くせりのガイドをしてくれたのだが、それが”心配り”だけにとどまらないのである。

 昼食代は含まれていると聞いていたけれど、それ以上は聞いていなかった。なのに私が言い出す様々なこと、たとえば、ヤンゴンの喫茶店は日本と違って面白そうだから入ってみたいとか、あの春巻きみたいなのがおいしそうだから食べてみたいとか、もちろん私は自分で払うつもりで好き勝手なことを言うわけだけれど、それらに機嫌よく対応しながら彼等は私に全く払わせようとしないのである。こちらには言葉の壁があるので、私がもたもたしているうちにサッサと払ってしまい、また、あの白い歯を見せながら、ニコニコ笑っているのである。

 挙句の果てには市場で、この国の人達の九割方が着ている”ロンジー”という筒状の長いスカートをつくりたいという私につきあって一緒に生地を選んでくれ、当然この生地代は自分で払ったのだけれど、そのあと縫製屋に持ち込んで仕立ててもらった仕立て代まで、いつのまにかニコニコと払ってしまっていてくれた。

 客の要求にはある一定金額内でなら答えるようにと、会社の方(旅行代理店)からお金を預かってきているのだろうかとも考えたりしたが、たとえそうだとしても、私の常識の範囲を超えているのである。
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の二
 寺院を巡りながら、「私たちは子供のころから、年上の人は敬い、同輩には慈しみを、年下には思いやりを持つように、と教えられてきました。」と、仏教の話も交えてガイドしてくれる若いマウンマウンの聖人君子のような横顔を見ていると、そのうち、だんだん自分の中に欲求不満が溜まってくるのがわかった。そんなキレイな話ばかりのはずはないだろう。嫉妬や妬み、卑下やコンプレックスなんてものはどこへ隠してあるんだ。どうも解せない。次会ったらちょっと意地悪な質問をしてやろう、そのうち化けの皮をはいでやろう、などということまで考え始めていた。
 ミャンマーに入って4日目の早朝、私は自分1人に日本語ガイドのマウンマウンと車を1台、それからドライバーを1人チャーターするという、ちょっと贅沢な2泊3日の小旅行に出発した。三十路も過ぎて、若い爽やかな青年2人をお供に連れての左ウチワの旅ということ自体がもう幸せに満ち満ちていたけれど(?)、今も坊サマが人々のお布施と托鉢で敬われつつ暮らしている真の仏教国ミャンマーのなかでも最高に”宗教的”とも言える仏教の聖地チャイティーヨへ詣でる今回の旅は、歩を進めるうちに私の物見遊山気分と単なる好奇心を、いつの間にかこの国への畏れと尊敬心に変えてしまうほどの、不思議な魔力に満ちた旅になっていったのである。

 チャイティーヨは、ヤンゴンより北東へ車で数時間の道のりに位置する山の頂上にある古い寺院である。有名なのがそのパゴダ(仏塔)で、山頂の岩場の一点を足場にその上にのっかった直径8メートルばかりの金色の岩(ゴールデンロック)をベースに建てられた、金のパゴダである。大人一人の力でぐらぐらと揺れると言われるほど見た目にも不安定なのだが、決して落ちることはないという。

 チャイティーヨとは、モン語で”僧の坊主頭にのった仏塔”という意味で、釈迦が悟りを開いてからこの地方にやってきたとき下さった二本の聖髪を、僧の坊主頭に似た大岩の中に納め、その上に仏塔を立て、奉ったものだという。

 山のふもとから山頂までは、33の小さな山を越えて11キロの道のりだ。観光客向けに別ルートで途中までバスで行けるようになっているのだが、私たちは一般の参拝者たちと同じルートで山頂を目指すことにした。数時間の登山とは聞いたがチャイティーヨに3回詣でると幸せになれる、などの日本の富士講にも似た縁起のいい言い伝えも後押しし、こわいもの知らずで出発した。

 私たちの訪れた12月の半ばは1年の中でいちばん過ごしやすい乾季(12〜2月)にあたり、ピークではなかったらしいが、相当数の参拝者でにぎわっていた。

 ゴールデンロックのふもとの村では、帰りの客を狙った土産もの屋や屋外にテーブルと椅子を並べるオープンな食事どころ、登山用の杖や編み笠を売る店などが並び、道の両側は大賑わいである。この間を抜けるといよいよ山道になり参道に入る。

 同じようにグループや家族でやってきている参拝者たちを追い抜いたり追い越されたり、また降りてくる人達とすれ違ったりを繰り返しながら、粘土質な、硬い土と岩の黄土色の坂道を踏み締め歩いて行くと、予想に反して15分と経たないうちに息が切れてきた。「ひや〜、しんどい〜、」と声に出してぼやきつつ、もうすでに吹き出し始めた汗をぬぐいながら、3人で顔を見合わせると笑えてくる。これはあまり馬鹿にしたもんじゃあないなあ、と互いに再認識し、気合いを入れ直す。私以外の2人は過去に1度登ったことがあるらしく、思い出したように「そう言えば前に来たときは半分のところでもう降りてこようと思いました。」なんて言っている。

 時にはものすごく急な石段が延々と続くこともある。そんなときは、先に上を見上げて石段を発見した誰かが、足元を見つめながら歩いている残りの2人に「あ、今上を向いてはいけません。」などと言い出すので、そうは言われても怖いもの見たさで「ね、ちょっとだけ見ていい?」などといいながら、見上げた自分を後悔し、といったふざけあいの繰り返しなのだが、面白いことに、進むにつれ疲れが増すにつれ、私たち3人だけでなく、同じ目的をもって歩く全ての人達が、徐々に運命共同体と化してくるのである。
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の三
 山道は厳しかった。しかしこちらに余裕があれば、ふうふう登っている人を追い越すとき、ガンバレ!などと声をかけた。また逆に疲れ果てて歩いていると、コラコラ顔が死んでるヨなどとちゃかして元気付けてくれる人がいたりということが始まる。
 私には言葉がない(ビルマ語ができない)ので、マウンマウンの言うこと、すること、そして彼が訳してくれることを通じての理解になる。一方、マウンマウンもドライバーのチョウも、私に対しても気を配ったり話しかけたりしてくれたが、同様に、参道で出会う人達とも声を掛け合ったりおしゃべりしたりしながら山道を登りつづけた。そんな彼らを通して知らぬ間に私も、言葉の壁や疎外感を感じることなく、同じゴールデンロックを目指す運命共同体の一員となって歩くことができた。

 半分に差しかかったころには、少しくらい休んでも汗と疲れがとれきれず、それでも歩き続けるなかで長い石段を見つけたら、そこらにいる参拝者全員のあいだに、強いものの前へ出てなすすべのない弱者の共感みたいなものがぱっとひろがり、口々に「もう終わりだ〜」だの「あたしゃもう降りる」だの、いろんなことを言い合いながら顔を見合わせて笑いあい、共同体意識を強め始めていた。

 初めて出会った人と出会った瞬間から何の抵抗もなく声を掛け合える状況というのは、チャイティーヨ詣でに限らずこの国ではよく見る風景だ。隣りに住む人すら他人になってしまった日本では声をかけたくても、無視されるのではないか、嫌なを顔されるのではないか、それくらいなら黙っていようと事なかれ主義に陥りがちなので、ミャンマーのこの状況自体がカルチャーショックで、旅行者にとっては何とも心地よい違和感に満ちている。さらにチャイティーヨ詣での道中というのは、そういった日常に輪をかけた赤の他人同志の不思議な連帯感にあふれていて何とも楽しかった。

 さらにもっと気持ちのよかったことは、この、声を掛け合う相手というのに老若男女の区別がない、ということだった。マウンマウンもチョウも未婚の、そこそこ男前な青年であるわけだけれど、若い女の子やきれいな女性をことさら意識する様子もなく、子供たちや年輩の人を見たときと同じように声をかけたり冗談を言い合ったり、またまったく同じように中年のおばさんにも声をかけ、ときにはおばさんとも一緒に登ったりしているということだった。それは「見慣れぬ」光景だった。

 爽やかな印象とともに不思議な感じがしたのは、彼等が同じ黄色の肌の、自分(日本人)と近い存在と感じられる人達であるのに、日本の男の子たちと全く異なる行動をとるせいだと思う。日本のこの年代の男の子たちなら、若い女の子に対しては、照れてぶっきらぼうになるか、妙に下心のある態度にでるか、いずれにせよ、多少の不自然さが行動に見える。それに、きれいな女の子とそうでない子を区別して対応したり、ましてやオバサンや年寄りなんて眼中にないのがごく当り前。初対面のオバサンと若い男の子が、何のギャップもない様子で談笑している風景などというものは、何だか悲しいけれど日本ではあまり見ないのではないだろうか。チャイティーヨ詣での山道では、そういった、私の辞書にない世界がいたるところで繰り広げられていた。

 彼等を見ていると、いろんな他人を区別せず、等しく見ているように思えた。日本では、過去には、男女6歳にして席を同じうせず、などと言われ、ことさら異性を意識させられた時期があったりして、現在に至るまで、こんなにさりげない自然体の人間関係のあったことはなかったんじゃないか、と感じた。
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の四
 ゴールデンロックへ向う道中のつらさを和らげてくれたもうひとつは、参道に、この乾期(参拝期)のみ上がってきて居を構える、何十何百かの家族たちである。彼等は、この季節以外は、ふもとの村やタイ国境の山々に住み農業を営んだりしているらしいが、この季節になるとここへやってきて、木や葉を使った小さな家を作り、暮らし始めるのだという。
 小さな、主に2〜5歳くらいの子供たちと老人たちが参道の両側に座って、道行く参拝者にお布施を乞うていた。彼等は、半裸に近い姿だったり、穴のあいた着古しをろくに洗濯もせず着ているような貧しい風体だったけれども、人が近付くと、元気いっぱいの大きな声でお金を乞う合唱をはじめた。マウンマウンが時々、日本語に訳してくれたけれど、主な文句は「私たちは道をきれいに掃除しました。」といったたぐいのもので、お金を乞う理由を叫んでいるのだった。彼等は乞食ではなかった。

 参道の両側に、木の箱か、四本の木の枝を立て布の四隅を枝に結わえて作ったお布施皿を置いて、その側に座る子供たちは皆まだ本当に小さくいたいけのない様子で、一生懸命に叫ぶ声はほほえましく、多くの参拝者達が1k札、5k札と入れていく。

 この子供たちの親というのは当然若い夫婦になるわけだが、彼等は、参道のあちらこちらに設けられた小さなベンチを管理し、常時お茶を沸かし、また水がめに水を満たし、道中の疲れた人々が体を休め喉を潤せるよう気を配るとともに、朝夕の暗い時間には道々にろうそくを灯し、足元を明るく保っているのだということだった。私たちも何度となく、このお茶とベンチのお世話になった。お茶を飲んだ人達は、備え付けられたお布施箱に少しのお金を入れていく。

 誰も何も強要しない、労働や物とお金を”交換”するわけでもない、けれど大ざっぱには、この何十組かの家族の生活と、毎日やってくる何百人かの参拝者、その需要と供給がうまく合い、満たされるように、お金と物が潤滑に循環している優しい世界がそこにあった。

 彼等ばかりでなく、ジュースや飲み物、食べ物を売る店、昼寝のできるスペースを提供する小屋、また、道道にある小さな寺やパゴダのお布施を求めるテントなど、参拝者はあちこちからひっきりなしに声をかけられ、退屈することはなかった。

 マウンマウンは、ここへ来る前に銀行へ寄って、100kをピン札の1k札100枚に変えて持ってきていた。左胸のポケットに100枚の札束を入れて、1枚づつ、子供たちに渡したり、寺やパゴダにお布施したり、また、水やお茶を飲んでお布施箱に入れたり、時に、茶色い袈裟を着たお坊様と出会ってすれちがうことがあれば、草履を脱いでおごそかに通りすぎられるのを待ち、すれちがう折に、托鉢盆に少しのお金を置いたりするのだった。

 100kというのは、公務員の月給が1500kとするなら給料の15分の1、日本で1万円2万円の価値になる。ただ、ものの値段が全然違うので一概には比べられないのだけれど、少なくとも自分の財布に多少はひびくレベルの出費なのではないか。

 山道での子供たちは、お礼は言わない。ただ時々、お布施をくれた人に「疲れないで山頂まで行けるようにお祈りします」などと、言葉をかけてくれる。また親に言われた言葉を復唱しているのだろうが「38万kのくじに当たりますように」とか、若い男の子には「キレイなお嫁さんがくるようにお祈りします」などと神妙な顔で、言ったりする。2つや3つの、まだ言葉を覚えたての子供たちの小さな口から、こんな言葉が、たどたどしい口調でこぼれてくるのを聞き、思わず吹き出させられることもしばしばだった。

 そんなわけで、11キロの山道は、かなりハードな道のりであったけれど、大汗にまみれながら、休み休み、笑い笑い、”山頂まであと何キロ”の表示を追いかけながら、3人で、みんなで、登りきることができた。
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の五
 夕方、山頂の展望台から下界を見下ろした。陽はほとんど落ちてしまっていたけれど、まだ白い空の下に広がる大きな大地は、これまで見たことのないほどに、人の匂いのしない、手付かずの大自然だった。もくもくと丸い、濃い緑の木々が続く深い森の樹海と、延々と広がる緑の平野。平野のなかをくねくねと流れる川が光を受けて、つやつやと輝く絹の糸のように見えた。
 チャイティーヨ詣ででは、登山途中にもいくつもの素晴らしい展望に出会えるが、登りきったあとの広大な風景はひとしおである。うっすらと、気付かないくらいの薄いもやにおおわれ、緑の色がやさしく落ち着いていた。乾期のミャンマーの風景はあくまでもやさしく、体中の力を抜かせてくれるような、ゆるやかな色とフォルムで構成されていた。心地よく、疲れた身体をそっと、撫でてくれるかのようである。人の匂いのない大自然なのに、穏やかな風に吹かれて見つめるうちに、ふと、ミャンマーの人たちと過ごす時間に似た感触だということに気がついた。人も自然も穏やかで、大きく深くやさしい、大人の国なんだなあ、と思った。

 さっきまでの強い太陽がうそのように、ひんやりとした風が吹きはじめ、太陽のすっかり落ちるころには肌ざむく、マウンマウンは、私のためにかついできていてくれたジャンバーを出して、私に着せてくれた。

 この夜、ホテルで水を浴びてから、山頂に20軒ほど連なるレストラン街の一軒で食事をとり、暗くなってから3人でチャイティーヨパゴダを詣でた。境内の敷地に座り見渡すと、ゴールデンロックのパゴダのまわりには、何十人、何百人もの人達が集い、めいめいに祈りをささげていた。

「あの、少し、お経を詠んでもいいですか。」 マウンマウンは数ページの小冊子をポケットから取り出し、まず私の了解を得た。ライトアップされ、夕方よりさらに金色の輝きを増して、黒く深い空に浮かび上がったゴールデンロックは、その、一点だけを支えられて建つ姿がますます不思議に、神秘的なものに見えた。その金色の塊に向かって二人は、ミャンマー流のお祈り〜正座の姿勢から三回頭を地面にすりつける〜をしてから、冊子を開いて端からぶつぶつと読み始めた。

 拡声器を通して一晩中止むことなく唱え続けられる、歌うようなお経の声、金色に輝くパゴダの下の小さな広場に灯されたたくさんのろうそく、入れ替わり立ち替わりやってくる、人々の動きと祈りの声、そして、パゴダの西側の切り立った崖の向こうの真っ暗な大自然、そんなビルマの信仰の地のなかに座って、信仰を持たない私は、ミャンマーの人達を見ていた。静かな気持ちだった。

「ここに来ると、とても有り難い気持ちになります。」お経を詠み終え、マウンマウンは言った。「このパゴダを見てどう思いますか。」---

 突然の質問に、うかつなこと言えないなあと思いながら私は月並みな返事をした。「すごくきれいで不思議な感じがする。」
 そして、そのあと、
「でも、ビルマ人の方がもっと不思議。」
 と付け加えた。すると、マウンマウンはすぐに、
「あの、すみません、ビルマでは、パゴダと人間を比べたりするのはあまりよくありません。」と、私を諭した。
「あ、ごめんなさい」
「いえ、いいんです、外国の方ですから。」
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の六
 実のところ、当初からの私の疑問はぐんぐん大きくなって、破裂寸前になっていたのだった。このゴールデンロックの旅にしても、ヤンゴンの旅行代理店に話をしにいったとき「食事はどうされますか、全部つけますか?」と聞かれたので「いえ、その辺で食べますから。」と答えておいたのに、また、マウンマウンが払ってしまうのである。チョウも、何か飲んだり、ちょっとしたものをサッと払ってくれる。マウンマウンのアルバイト料は、ツーリスト相手の仕事であるため、一般の公務員などより良いことはわかっているのだけれど、この国では”外食”というものが一般的でないようで、外食は他のものに比べ、極端に高いのである。3人で食べたりすると、150〜200kはかかってしまう。公務員のサラリーが1500kであることを考えれば、一般の家庭ではそうそう外食などできないだろうということが想像できる。
 それなのにそれを払ってしまうマウンマウンに私が「食事代は含まれていないはずだから。」と言うと、「大丈夫です、これは自分の財布ですから。」などと平然と言う。400kとかいう日給で、食事1回に200k払っていたらどうなるんだ、と思うのだけれど「なぜ?」と聞いても「払わせられません、ビルマではそうなんです。」などと私には意味不明な発言を重ねるばかり。

 もちろん今回の場合、客側が1人だとか女だとかいろいろ状況もあったとは思う。しかし1人でこの国にやってきた日本人の男の子が、空港から市内に出るとき、現地の通貨を持たないままバスに乗ってしまったら、乗り合わせた人達みんなでお金を集め払ってくれただの、道を尋ねた人が目的地まで送ってくれただの、そういった”解せない”事件がこの国で多発していることを私は知っていた。この国の人達にビジネスは無理だと思うことは、このときに限らず後々までしばしばあった。

 この夜、黄金のパゴダを前に3人で座り込んで、これらの不思議について私は彼等に次々と質問を浴びせた。随分長い間、多岐にわたって話をした。

 この夜の会話のなかで、マウンマウンは、自分にとって一番大切なものは両親だと言った。「私だけじゃありません。ビルマ人はみんなそうです。」

「自分自身より?」
「はい、自分自身より。」 
「まさか。---それに、誰もってことないでしょう。」
 私はマウンマウンの発言に、日本の若い人達の顔を思い浮かべながら、半信半疑で反論した。「ホントです。」
穏やかな表情で答えるマウンマウンに、
「じゃあ、チョウにも聞いてみてよ。」
と言ってみた。マウンマウンはすぐ、チョウのほうに向き直ってビルマ語で話し、「彼も同じだと言っています。」と答えた。

 それでも信じられなかった私は、実はこの後、旅のなかで、人を試すようでちょっと意地悪だなと思いつつ、何人ものミャンマー人に同じ質問をしてみた。詳しく書き出すとキリがないので簡略に言うと、未婚の青年は九割方、マウンマウンと同じことを言った。なかには、もし自分に子供ができて、子供と両親のいる家が火事になったとすると、自分は両親を助ける、と言った人もいた。なぜならば、両親がいなければ今の自分はないのだから、と言う。頭のいいその青年は「日本人は子供を助けるって言うんでしょう? 将来があるから子供のほうが大事だって。」とも言った。それから「日本には”うばすて山”なんて話があるらしいですね、本当にあったはなしですか?」とも聞いた。そんなふうに問われて、老人を「経済発展のためにはお荷物」と見、歳をとることを誰もが恐れるような、経済価値がなにより優先されてきた日本の価値観を改めて思い出し、何とも背中に寒いものを感じた。
どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で 〜 の七
 臆面もなく、何の迷いもなくミャンマーの若者が「子供より親が大事」と言い切れるのは、妻や子を実際に持ったことのない若さのせいでもあろうと思われたが、若い人達の気持ちがそんなに純粋で、欲にもお金にも惑わされない状況というのは、この国が、古い時代のままであるせいだけでもないという気がした。もちろん国の社会・経済状況による部分も大きいと感じるのは、数少ないサンプルながら、タイの青年が大切なものは「お金と家」と非常に現実的な答えをしたり、ヨーロッパの青年が「自由」などという抽象的な回答をしがちなことからも察することができるのだけれど、じゃあ過去の日本と同じかと問われれば、そうでもないという気がするのだ。
 かといって、この国が信心深い真の仏教国であるせいかと言われれば、出会ったキリスト教徒のミャンマー人もイスラム教徒のミャンマー人も、仏教徒のミャンマー人と同様に信じられないくらい親切で、誠実な人種であることにかわりはなかった。

 さらに、この国ではミャンマー人と一言で言っても、モン族、シャン族、カチン族と色々な民族や、ネパール系、インド系、中国系と父母や祖先にいろいろな血を持つ人達が混在する。そのため彼等は、ビルマ語のほかにも大抵、自分の族や祖先の言葉をも持つ他民族国家でもあった。何かひとつの要素だけでなく、宗教も民族も気候もそれに社会や経済の状況も、その全てが、あるいは何かもっと他のものも渾然一体となって、このミャンマーという国の美しい風土と精神を造り上げてきたのだろう。

 夜の風がどんどん冷たくなっても、チャイティーヨの黄金の夜は終わらなかった。いつまでもお経が響き、人々が祈りをささげ、ろうそくの火は、絶やされることはなかった。十も年下の青年に、いくら質問しても彼は言葉に窮することもなく、男女のこと、親子のこと、夫婦のこと、と色々話すうちに、質問する自分のほうが追い詰められていくような気がした。普段日本の価値観で当然だと思ってしてきた行動のあやまちを鋭く指摘された気がして、意に反してこの夜の私はかなり動揺してしまった。

 そんな大自然と人々の祈りに抱かれて二夜をすごし、三日目のまだ暗いうちに、私たちは同じ参道を下った。下りはずいぶん楽だったけれど、真っ暗な山道で、ろうそくの小さな火を灯し、毛布にくるまって眠そうな声をせいいっぱいにふり絞ってお布施を乞う子供たちに、一言ずつ言葉をかけながら1kずつ渡して歩くマウンマウンを見るうちに、私も自然な気持ちで子供たちにチャット札を手渡し始めていた。そうすることが、自分にとってとても気持ちの良いことであるのが不思議だった。暗い中、山道のところどころにはもう、熱いお茶が用意されていた。

 このとき、マウンマウンたちの不思議な行動は、実感レベルで理解できたわけではなかったけれど、少なくとも裏や嘘があるのではないことだけは確信できた。化けの皮をはいでやろうなんて思い上がりを持った自分を反省していた。妙な言い方だが、信じるものが何か変わった気がした。

 私なりにビルマの人達の行動を理解するヒントを得たと思ったのは、前述した、旅の半ばで出会ったタクシードライバーのティントゥン氏を通じてだった。インド系の血を引くイスラム教徒のティントゥンは40代で世の垢にもまみれていたし、ビジネスも知った大人だったけれど、彼もまた、私が彼に支払った以上の出費を惜しまず、私のわがままに、いつも根気よくつきあってくれた。何日間かをともに過ごすなかで彼はこんな話をしてくれた。

 自分はイスラム教徒だけれど、キリスト教も仏教も否定しない。神はひとつだと思う。自分はいつも自分のできる最大のことをしたい。人といれば、人が喜ぶことを全力でしたい。そのとき大変だったり、お金がなくなっても厭わない。神は必ず見ていてくれる。そしていつの日か、自分に返してくれるんだ---と。

 誰かに何かをしてあげると、私たちはその相手から、直接何らかの見返りを期待する。今日彼女におごったとすれば、次は彼女が払ってくれるだろうとか、ちょっとは感謝してくれるだろうとか。だから、初めて出会った旅人に、大金を貢ぐなどということは、まずないのではないだろうか。

 ティントゥン氏やマウンマウン、ミャンマーの人達は、何かしてあげた相手からの直接の見返りを期待しない。いつか神が返してくれる、来世にいいことがあるなどという何の保証もない、あまりに確実性のない投資先を大切にする彼等の心は、私の理解の範囲を大幅に超えた精神構造だと感じさせられたが、ティントゥン氏の話は不思議に心地よく、ひととき心を暖めてくれたのだった。

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