ビルマ一カ月の旅ばなし
舟橋左斗子 著
目次
1、「ありがとう」を言わない国
2、どうも解せないこと / ゴールデンロック参拝道中で
3正義のために死ぬ覚悟 / マンダレーの一夜
4世にも美しい男の園 / アマラプラの僧院探検
5大人より大人な子供たち / 古都パガンは今も健在!
6時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中

時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中 〜 の一
 このときのミャンマー滞在は、ビザの最高期限の4週間をとっていた。4週間の間に必ず訪ねようと思っていた場所は首都のヤンゴンの他、パガンとマンダレーくらいで、後は慌てず急がず、今日吹く風に身を任せようと思っていたので、最初のうちはのんびりしたものだった。のんびりはしているといっても、ミャンマーの交通手段には裏切られっぱなしだった。
 私が最初に長距離移動をしたのは、ヤンゴンから北のマンダレーへ向かう列車である。

 この国では、大きな都市と都市を結ぶ交通は、早朝まだ暗いうちに出発するものが多い。バスなどは4時というのがもっとも一般的なのだから最初は辟易したが、朝の4時でも町はひっそりと目覚めていて、電灯もあまりなくてどこも真っ暗なのに、目を凝らして見渡すと、小さな裸電球もどきをつけたコーヒーショップのなかで人がもぞもぞと活動を始めており、近寄ってみると大声で注文する人もいて結構活気にあふれているのである。

 コーヒーショップといってもヨーロッパ風のドアを押して入るようなコーヒーショップではない。屋根と柱だけがあって、床は道の続きで土の地面、地面に近い低い木の机と椅子が無造作に置かれただけのシンプルな店である。朝まだ肌寒い時間帯にこの木の椅子に腰掛けて、ガラスのコップに入って出てくる暖かいラペイエ(ミルクティー)とその場で焼いてくれた薄焼きのパンを食べるのは、現地の人の一員になったようで気分爽快だ。朝の四時、この国の人達はもう目覚めている。

 マンダレーへ向かった日も、やはり、朝のミルクティーを飲んですっかり旅気分を高めてから列車に乗り込んだのである。6時ごろの出発だった。車窓の景色を眺め、駅で物売りに来る子供たちからバナナを買って、車中の別のお客さんと果物の交換などしながら何でも楽しんでいた頃は良かったのである。

 まず駅で何か食べるものを買えるだろうと思っていたあてが外れた。子供たちや物売りの女性たちの売りに来るものはお菓子や果物の他は食べ物だか何だか分からないものばかりで、アッパークラスにしか乗れない外人集団の私たちにはどう手を出して良いのかわからないしろものばかりだった。パンなどを持ち込んでいた人は良いが、私は前日にヤンゴンで知り合った友人が持たせてくれたビスケットと子供から買ったバナナだけでお昼をやり過ごし、まあ夕方8時に着くんだからいいわと諦めることにしたわけだが、これが8時になっても9時になっても全然到着しないのである。

 一人旅だけれど8時に着くならそれからホテルも捜せるはず、とのんびり構えていたのだが、9時10時ともなってくるとそちらの方も気がかりになってくる。おまけにおなかのすいているせいもあろうがどんどん寒くなってきて、常夏の予定できている私たち外人観光客を震え上がらせた。遅れていることへの説明もなければいつ着くんだという解説もなく、しかし10時も過ぎると、何だか列車の調子が悪いらしいといううわさが流れ始め、当分着かないようだとみんな認識をあらためて眠ることを試み始める。ところが信じられないくらい寒くて(真冬並み!)、一枚や二枚羽織ったくらいでは眠れず、そのうえ空腹で一房買った小さなバナナも食べられるだけ食べて、もううんざりだったし、状況はよくわからないわで、なかなかに苦しい一夜を過したのだった。

 到着したのは翌朝の4時で、それでも駅にはトラックタクシーがたむろして客待ちをしていた。

 そのときから私は日本の感覚では旅できないと悟って、考え方を変えることにしたのである。

 旅の後半でちょっと欲張ってインレイ湖を行程に組み入れ、パガンからインレイ湖近くの村シュエニャゥンへ移動したときはトラックバスを使った。朝の3時45分に出発、一時間くらい走っただろうか、まだうす暗いうちにカンカラカ〜ンと音がして、車が止まった。運転手たちが降りていってしばらく待ったがすぐ再出発、しかし、まもなくもう一度カンカラカ〜ンの音でストップ。車の部品がはずれて落ちたらしくて今度は本格的に止まってしまった。

 現地の乗客たちが車から降りて道にしゃがんだりしはじめ、私たち外人もようやく、これは時間がかかりそうだということに気がついて車を降りる。運転手と乗客整理&集金係は車の下にもぐり込んで真っ黒になって修理を始めたがうまくいかず、とうとうトラックの上部の差し障りなさそうなネジを外して急所に使い、何とか30分あまりで出発できる状態になった。この日、特に焦っていなかった私は成り行きに任せて観察することにしたのだが、乗務員側も起こるべきことが起こったという平然とした態度でもちろん謝ることもなく、乗客側も、外国人をのぞけばまったく動じることもなく、怒るどころか何時間でも待つよ、とでもいわんばかりの表情でのんびり座り込んで大人しく待っていることが私には非常に愉快に映った。「常識」が私たちとは違うのである。

 中国や日本から仕入れられたかなり古い車が走るこの国では、故障なんて起こって当然なのであろう。大型のバスに乗ると「神戸バス」「お降りのかたはこのボタンを押してください」などと現地の人には何の意味もない日本語の表示が書かれたままになっていて笑わせてくれる。ましてや道路は悪い、人は定員の何倍も詰め込んで、トラック後部に何人もがつかまって立ち乗りしたり、屋根の上はもちろん、ときにはボンネットの上に10人くらい座らせて走っているような信じられない光景も見るのである。いつ壊れても不思議じゃないし、ちょっと故障して遅れるなんてのは序の口だという気がした。運転手が、誰でも車を分解する勢いで修理してしまえるくらい機械をアナログに理解しているということもすごいことだと思った。
時は金ならず / ミャンマー国内の移動途中 〜 の二
 誰も「時間」をお金に換えるような暮らしはしていなかった。たとえば、バスは、終着駅ではよく、そのままホテルまで運んでくれた。先ほどのバスをシュエニャゥンで降りて乗り換え、インレイ湖へ向かったバスには、外国人が10人ばかり乗っていて、何人かづつがあのホテル、このホテル、と勝手なことを言うのに全部つきあって連れていき、客がホテルと交渉を済ませてOKと言うなり、やっぱり別のところへ行くと言うなりするのをじっと待っていてくれるのである。そんな契約は一切していないのにである。ただし、このバスでは外国人には料金が少し高かった。とはいえ、ホテルまで運ぼうと運ぶまいと料金が高いのは同じだった。
 少なくともこの国では、単位は「1日」以上だと思えた。1分とか1時間とかじゃなく、1日でできることならば、30分や1時間前後する程度の労働は、皆親切という言葉を持ち出すまでもなく、まったく当然のことであるかのようにやってくれた。

 そのかわり、客側も正確な時間は要求しない。たとえば、朝4時に出発するバスはいつも乗客に何のことわりもなく乗務員の朝食タイムに30分ばかり止まった。乗客は出てきて一緒に食事するものもあったが半分はバスの中か外で大人しく待っていた。

 時間計画の立てられない、立てようとしない社会は、旅行中の暇な私には居心地が良かった。バスが壊れて止まれば行き交う満杯の車を観察し、朝食タイムで止まれば、数語だけ丸暗記したビルマ語でお茶を注文する。時間どおりに着くことを期待していれば、時間遅れが許せないだろうから、毎日いらいらして暮らさなければならないに違いない。しかし、最初から人々の単位は「1日」なのである。旅行者を除いて、誰も怒ったりいらいらしたりしていない。

 とはいえ、私も永遠にのんびりしておれるわけではないので、出国の日が近づいてくると時間合わせをしなければならなくなった。最後に欲張って予定外のインレイ湖を組み入れてしまったので、ヤンゴンで2〜3日、と言うわけにはいかなくなったのである。出国予定日の予定時間には一応、ヤンゴンの空港にちゃんといなければならない。のんびりした旅人だった私は、徐々に、ジャパニーズビジネス頭脳に切り替えつつあった。お金もかけずに旅してきたけれど、インレイ湖から最後のヤンゴン行きだけは思い切って空路を使うことにしたのだ。大幅な、マンダレーのときのような遅れは許されなかった。費用も他の交通手段と比べると随分高くついた。仕方ない。唯一のハイテク交通なのだ。

 予約を依頼したMTT(ミャンマー・トラベル&ツアーズ)では、まったく理解できない、丸をいくつも組み合わせて作ったようなビルマ文字の紙切れを渡されて、1時に空港に、とだけ言われていた。言葉の分からない分、私は時間を厳守して、余裕を持って空港に着いた。

「ここです」
 と言われて車から降ろされた場所は、一瞬一体どこに空港があるんだろう、と思わせられるようなただの野っ原に見えた。平原の草を刈り取って切り開いただけのようなグランドは、地方の小学校のような出で立ちで、建物も小学校より小さいと思える小型でシンプルなものだった。ちょうど1台のプロペラ機が到着し、人々が降りたって賑わい始めたところだった。乗り降りする人と同じ「運動場」の片隅で待つように言われ、建物の影に座り込んで待つこと一時間、何の音沙汰もない状態に焦りを感じ、制服を着た男をつかまえて聞いたのである。

「あの、ヤンゴン行きの695便というのは?」
 すると男は平然とした顔で答えた。
「695便? そこに停まってるやつだよ。だけど次向かうのは、ヤンゴンじゃなくて東の方だ。帰ってきてからその後で、ヤンゴンへ向かう。そうだな、もう1時間ばかりかかるんじゃないか?」
「ええっ?!」…

 結局私たちが飛行機に乗り込んだのは、もちろん1時間後なんて甘いものではなく夕方の5時だった。

 私たちの乗ったプロペラ機は、夕刻地面の見える高さを飛び、ビルマの大地と川に夕陽が落ちていく風景を見せてくれた。心安らぐ、私の好きな風景だった。優しい緑色をした平たい大地に、川がくねくねと変化を続け、夕陽を受けてつやつやと、白く、赤く、輝いていた。ヤンゴンに早めに着いて行きたかったところには行けなかったけれど、時間と空間の刻々と変わりゆく中で雲ひとつない空のなかを流されながら眺めた夕焼けの風景は、私を少し得した気分にさせてくれた。これもまた良かったな…と。

 どの交通機関を使っても時間が読めないとなると、時間は読めない、ということを基準にした社会常識ができあがっていく。ミャンマーではいつまで、この「1日単位」の生活が続くだろう。何度も期待を裏切られつつも、私は、日本の「分刻み」の生活に対抗する、「1日単位」が気に入って、もうしばらくこのままでいて欲しいと思うのである。

ホーム前ページ