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その1
by 後藤 修身
目 次
出発 / 国境の町

賭博場

道路工事



ナンカンの美女



日本人の果樹園



中国に行きたく
なかった大仏


出発

 古都マンダレーの朝6時。暑季には連日40度を超えるこの街も、12月になると半そででは少し肌寒い。といっても、寒いのは早朝だけである。出発の朝は乾季なのに珍しく雨だった。まとわりつくような霧雨の中、チャーターした車が国境の町ムセへ向けて出発した。

 太平洋戦争前夜、日本軍は泥沼化した日中戦争に苦慮していた。日本軍にとって、中国軍の補給路を断つのは戦略上どうしても必要だった。日本海に面する中国沿岸は日本海軍により海上封鎖されていたが、連合国側からの援助物資が国境を越えて入ってきていた。インド洋に入ってきた連合国の物資がビルマのラングーン港から荷揚げされ、マンダレー、シャン州、中国雲南省を通り重慶へとたどる。これがビルマ公路である。この道は別名『援蒋ルート』と名付けられたように、蒋介石軍を援助する重要なルートであった。当時ビルマは英国の植民地であり、独立運動も活発化しつつあった。イギリスから独立したいビルマ人、ビルマ公路を封鎖したい日本。ここに両者の利害が一致した。

 真珠湾攻撃の翌月、1942年1月にビルマ独立義勇軍と日本軍がタイ国境よりビルマ国内へ進軍した。ビルマ独立義勇軍は日本軍の全面的援助により出来た軍隊で、若きアウンサン(アウンサン・スーチーの父)がリーダーであった。1942年8月、中国国境まで進軍した日本軍は完全にビルマ公路を掌握した。中国軍は雲南省へ、イギリス軍はインドへと逃げていった。だが、日本支配は長くは続かなかった。3年後にはイギリス軍と中国軍によってビルマ公路は奪還されてしまう。

 そんな戦火が渦巻いた時代からもう60年経った。今のビルマ公路を目指し、私はマンダレーを出た。しばらくすると登り坂になり、ほどなく標高1500mほどの高原が続くシャン州に出た。ここでも雨が降りつづく。日本の田舎を思わせる風景の中、写真を撮ることもほとんどなく一気に国境の町ムセへと走った。

 現在は中国との国境貿易でにぎわうビルマ公路。すれ違う車は日本から中古で入ったと思われる大型トラックが多い。日本語で書かれた会社名をそのまま残している車が目につくのだ。道路状況も、ビルマで最もいいと言われているだけあって、全線舗装され『穴などあいていない』二車線だ。有料道路になっていて、マンダレーからムセまで計6回料金を払った。全部で800チャット(200円)ほどであった。

 夜7時半、それまで真暗だった周囲が急に明るくなってきた。ムセに着いたのだ。それにしても妙に明るい。ビルマの暗い夜に慣れた私には、明るく照らされた店が続くムセの町が新鮮でもあり奇妙でもあった。

国境の町

 中国国境に接するムセは以前は寒村であった。しかし、1980年代に中国の瑞麗市との間で国境が開いて以来、急速な発展をした。特に88年以降、西側諸国がビルマに対して経済制裁を実施したことがこの国と中国との結びつきを政治的にも経済的にも強くした。それが最も象徴的に表われているのがムセの町であった。

 「電気は全て中国から送電されているんだよ」
その夜、食事をとった食堂の主の言葉だった。どおりで町中が明るいわけだ。ビルマでは電力不足のため計画停電は日常茶飯事である。ところがムセに滞在した終日間、私は一度も停電を経験しなかった。もうひとつ目に付いたのが携帯電話である。携帯電話を持つ人たちが多いのだ。実はこの携帯電話は中国製であった。ビルマにももちろん携帯電話はある。しかし、契約料金が非常に高いのだ。それに比べると中国では1200元(1万7千円)と安いため、手に入れやすい。そして、国境地帯では中国側の中継基地がそのまま使える。だが、この携帯電話で自分の家へ電話すると国際電話になってしまうという奇妙なことになる。そのかわり、中国に電話すると国内電話なのだが・・・。

 ある役人がふと漏らした言葉。
「あと10年もするとここは中国になってしまうよ」
半分冗談半分本気とも思える自嘲的な言葉が忘れられない。

 80年代中頃まで、多くの国境地帯は民族軍や共産軍に支配されていた。ムセ周辺も例外ではない。ワ、コカン、クンサ、シャン、カチン、共産党…多くの多様な軍がジグソーパズルのようにせめぎあっていた。しかし、90年代に入り政府軍の攻勢が始まると次々と平和協定を結び停戦に至った。終戦ではない、停戦である。それに、武装解除されなかった地域が多いのだ。したがって、時々小競りあいが起こる。また、また、ゴールデントライアングルという名前で知られているように、シャン州の国境地帯は麻薬の生産地でもある。民族軍の大義名分は民族の自治、独立である。しかし、アヘンの生産を自ら行い、武力はその利権を守るためという民族軍も中にはある。これは民族軍の話だけではない。ビルマ軍内部ももちろんであるが、中国、タイなどの周辺国の軍内部でも麻薬に関連したキナ臭い噂が絶えない。

 もっと掘り下げると、この地域がアヘンを作り始めたきっかけを作ったのは、中国へアヘンを売りこもうとしてアヘン戦争を引き起こしたイギリスである。それに戦後、ビルマに逃げてきた中国国民党軍を援助するためアヘンの生産指導をしたアメリカのCIA。ゴールデントライアングルの背景にはこういう歴史があることを忘れてはならない。

 ムセの話に戻そう。

 町中で立派な建物が目に付いた私は写真を撮ろうとした。ところが、そばにいたガイドが、止めててくれと言う。聞くと、ワ軍が経営する会社だと言う。ワは麻薬生産で最も有名な民族だ。ムセの町中に氾濫する中国語の看板を注意深く見ると、いくつものワ軍経営の会社があるのに気がついた。その中にはムセの水道事業を一手に引き受けている会社もある。会社だけでなく、軍の連絡事務所もある。連絡事務所というと、カチン軍のものもあった。
「外国人が街中で建物の写真を取るぐらい何でもないだろう」
と、ガイドに尋ねたが、
「民族軍には外国人といっても通用しないし、スパイだと思われてしまう。それに、あなたが大丈夫でもビルマ人の僕がどうなるか分からない」
というように、非常に恐がっていた。彼の言うように建物の写真を撮ることがやっかいなことかどうかは確かめようがなかったが、私はともかく彼がトラブルに巻き込まれるかもしれないという言葉で自重してしまった。この時にはまだ、隣町で写真のトラブルを体験することなど思いもしていなかった。

 ムセの国境は町の中心から歩いて30分ほどの町外れ。ゲートの向こう側は高いビルが立ち並び、多くの人でにぎわっている。身分証明書を持っているビルマ人であれば誰でも国境通過証を作ることができ、1回5チャット(1円)で中国に入境できる。ただし、その日のうちに戻らなければならない。中国人も同様にビルマに入境することができる。外国人はというと、今のところ無理である。国境をはさんでビルマ側から中国側を垣間見ることしかできない。ビルの数、高さ、人の多さ、どれをとっても現在の彼我の経済格差を感じさせるものばかりである。すぐ先の中国へ入れない外国人の私であったが、ビルマ側にも中国があった。国境のビルマ側一帯が娯楽地帯として開発されつつあるのだ。そこはビルマではなかった。中国だった。ビルマ領でありながら中国語しか通じない。建設現場の労働者もほとんど中国人だった。それでも、やっと一人ビルマ語を話す人に出会った。この地域は中国人観光客のための娯楽施設を整えたもので、ほとんどがカジノだという。中国ではギャンブルが非常に厳しく取り締まられているので、ビルマ側に作るのそうだ。もちろんビルマでもギャンブルは禁止であるが、ここは一種の中国租界になっているらしい。10年もするとムセは中国になってしまうと語ったビルマの役人。建設途中のカジノを見ていると、彼の話を笑い飛ばすことができなくなってきた。

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