その5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
by 後藤 修身
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そろそろムセ、ナンカンを後にする日が来た。シャン高原を進路を南に取った。来るときとはうってかわって、高原の澄み切った青空が広がっていた。乾季の空気がひんやりとして気持ちがいい。路肩には無数の鮮やかな黄色い花が続いていた。 ムセから3時間ほどでクッカイの町に着いた。ビルマ公路の中でクッカイは最も標高の高い町でもある。この町に車を止めたのには目的があった。吉田丑之助という日本人がここに住んでいたのだ。その吉田さんは数年前に亡くなったが、ビルマ人の奥さんがまだ健在だという話を聞いていた。 戦時中、多くの日本兵がビルマまでやってきたのは有名であるが、戦前も多くの日本人がビルマで生活していたのはあまり知られていない。『ビルマワラ会』という民間の日本人会があったほどである。その当時会員だった人たちやその頃はまだ子供だった人たちに話を聞いたことがある。その人たちから見ると、戦前のビルマは日本よりずっと豊かだったという。貧しい農村の生活から逃れるためビルマに渡った日本人も多かったようだ。ビルマの列車が立派だったので驚いたいう話もしていた。その日本人たちの職業で多かったのが、歯医者、写真館、床屋などである。いずれも手先が器用でないとできない商売だ。手先が器用なのと写真館が何の関係?と思う人がいるかもしれないが、当時の写真は乾板写真で、人物写真だと乾板を筆で修正するのが普通であった。吉田さんの話を聞いたのもビルマワラ会の会員だった方からである。 吉田丑之助さんは1934年頃日本からやってきた。16歳だったという。最初、マンダレーで写真館や床屋の仕事をした。戦時中は通訳兵として日本軍に従軍した。1943年、日本軍兵士としてクッカイへ来た吉田さんは中国系の娘と出会い、その後結婚した。戦後、吉田さんは日本に帰らず、ずっと奥さんと一緒にクッカイで暮らしたという。90年代初め、クッカイで吉田さんは亡くなった。 吉田さんの家を訪ねた。黒い瓦屋根の平屋。その家だけ日本風家屋だった。庭に入って声をかけたが誰も出てこない。近所の人に聞くと、奥さんはちょうど親戚の結婚式があるということで、留守だった。庭に置かれた菊の鉢三つ。黄色い大輪を咲かせていたのが妙にしんみりさせた。近所の人たちが集まってきたので、吉田さんの思い出話を聞いた。吉田さんは腕のいい床屋だった。そして、果樹園も経営していたらしい。近所付き合いをしていたという男が高さ7〜8mほどのすぐ横の木を示し、「この木を知っているか?」と聞いてきた。草木に疎い私は首を振った。すると男は一生懸命に説明をはじめた。最初は全然理解できなかったが、男が地上のある一点を指差した。栗だ! 栗のイガが割れて口を開いていた。吉田さんは時々日本に一時帰国し、そのたびに苗木をもってきたという。栗やリンゴの苗木だった。シャン高原の気候が日本に近いためそれらの木々は元気よく育ったらしい。珍しい日本の果物が食べられるということで、吉田さんの果樹園は大人気だっという。しかし、吉田さんも数年前亡くなってしまった。子供達も他の町へ出ていった。残ったのは年老いた妻が一人。主のいなくなった果樹園は世話をしてくれる人を失い、打ち捨てられてしまった。向こうが果樹園だったよと指差す先は、雑草の生い茂るただの荒地にに戻っている。あと数年もすると、吉田さんの残した日本の記憶もこの地から完全になくなってしまうのであろうか。 |
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